今週の山頭火句

今週の山頭火句 ひらくより蝶がはなのうへ 山頭火

2011年12月7日水曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その10)

検定問題にチャレンジしてみませんか。


問46 死後1年、昭和16年(1941)に建立された「鉄鉢の中へも霰」の句碑は、どこにありますか。


1 山口県防府市山頭火の小路 
2 福岡県遠賀郡芦屋町  
3 愛媛県松山市御幸町一草庵


問47 「てふてふひらひらいらかをこえた」と山頭火が詠んだお寺は、どこですか。

1 中尊寺  
2 宇治平等院  
3 永平寺















問48 山頭火は、ラフカディオ・ハーンが「怪談」で世界に紹介した十六日桜(孝子桜)の龍穏寺を訪ねて俳句を詠んでいます。その句はどれですか


1 すなほに咲いて白い花なり    
2 さくらさくらさくさくらちるさくら 
3 咲いて一りんほんに一りん

龍穏寺、銅版に刻まれた山頭火の句


 
 








問49 山頭火が「をなごまちのどかなつきあたりは山門」と詠んだお寺はどこですか。


1 石手寺
2 宝厳寺
3 太山寺















問50 次の言葉は「草木塔」山行水行の冒頭にある山頭火の詞です。
(   )の中にはいる言葉は下記の3つのうちのどれですか。

      山あれば山を観る
      (        )
      春夏秋冬 
      あしたもよろし
        ゆふべもよろし

大山澄太さん書く

1 月出れば月を仰ぐ
2 花咲けば花を愛す
3 雨の日は雨を聴く
解答はここをクリックしてください。解答


[第2回山頭火検定」の試験問題(その9)

山頭火句(八木三春・書)
検定問題にチャレンジしてみてください。

問41 熊本にある観音堂での山林独住に耐えかねて、一笠一鉢の行乞流転の旅に出ましたが、そのとき作った句はどれですか。



1 けふも托鉢ここかしこも花ざかり
2 分け入つても分け入つても青い山
3 まつたく雲がない笠をぬぎ

問42 山口県川棚温泉で結庵したい心を句に詠んでいます。次のどの句ですか。

1 花いばら、ここの土とならうよ
2 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
3 はだかで話がはづみます

問43 山頭火の絶筆三句のうち一句を、次の句から選んでください。

1 焼かれて死ぬる蟲のにほひのかんばしく 
2 もりもり盛りあがる雲へあゆむ 
3 ほろほろ酔うて木の葉ふる

問44 「(  )供へて、母よ、わたくしもいただきまする」と亡き母の句を詠んでいます。供えたものは何ですか。

1 うどん  
2 そば  
3 トマト

問45 「ふるさとは(  )がうまいふるさとにゐる」山頭火は俳句でふるさとの食べ物を懐かしんでいました。その食べ物はなんですか。

1 豆腐  
2 佃煮  
3 ちしゃもみ
妹シヅの嫁ぎ先・町田家近くの公民館前の句碑

解答はここをクリックしてください。解答

2011年12月6日火曜日

訪庵録

一草庵の庭にある資料展示スペースの隅に置いてあります。訪れた人たちが、山頭火との出会いや旅の思い出として、様々に綴ってくれます。このままここだけに置いておくことを残念に思っていました。少しでも多くの人に見てもらいたい、そんな気持ちで、ほんの一部ですが投稿します。また、一草庵にお出かけのときは、ぜひ、あなたの思いを書いてみてください。



一草庵訪庵録より

 「やっぱり皆同じ人生なんてつまんないよね。オリジナルな人生をMakeするぞ!! H23.3.23」

※山頭火さん自身はどう思って過ごしたか分からないけど、やっぱりオリジナルなスゴイ人生です。真剣に自分の人生に向きあうことは、難しくて、そして一見ダサいようでも本当はかっこいいですね。一草庵で山頭火の人生に触れるだけで、何か勇気が湧いてきます。


「平成廿三年三月三日


 山頭火の句を知り、四十年経ちました。お遍路の途中、寄らせていただきました。一草庵の中に入りお線香を手向けたかったです。  さいたま市 矢島」


※入っていただけなくてとても残念でした。平成21年4月から、土日祝日は朝から夕方まで(季節によって時刻は少しずつ違います。詳しくはブログトップページでご確認ください。)庵を開放しています。また、ぜひお出でください。一草庵案内人一同お待ちしています。



「草庵にかまきりが

      待ってくれた   11月3日  石見国 康一 」

※「出会い
カマキリがいました! 花の下で食事中でした。

 

[第2回山頭火検定」の試験問題(その8)

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問36 「解脱院山頭耕畝上座」という法名の種田家の墓は、熊本にありますが、兼崎地橙
安国寺・種田家の墓
孫の書で刻まれた「俳人種田山頭火之墓」があるお寺は何というお寺ですか。         



1 熊本・安国寺   
2 防府・護国寺   
3 松山・龍穏寺
俳人種田山頭火の墓


問37 松山には江戸・明治・昭和の俳人ゆかりの庵が三つあり、「三庵めぐりコース」があります。その一つは子規が「伊予一番の俳人」と賛え、小林一茶も二度訪ねて来た栗田樗堂が建てました。庵の名前は何ですか。

1 庚申庵
2 愚陀仏庵
3 一草庵

フジの花咲けば、綺麗ですよ。

問38 山頭火の命日はいつですか。


1 昭和15(1940)年10月1日  
2 昭和15(1940)年10月11日   
3 昭和15(1940)年12月3日


問39 山頭火の業績の偉大さは、克明な日記に因るとも言われます。しかしある時期の日記を焼き捨て、「焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか」の俳句を詠んでいます。いま残っている日記はいつからのものですか。


1 大正12(1923)年9月1日
2 大正15(1926)年4月10日
3 昭和5(1930)年9月9日

問40 山頭火作でない句は、どれですか。


1 鴉啼いてわたしも一人 
2 咳をしても一人 
3 おとはしぐれか
小豆島・西光寺の句碑

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2011年12月5日月曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その7)

検定問題にチャレンジしてみませんか。


問31 山頭火の終の住処は「一草庵」と名付けられました。
その命名者は誰ですか。


1 荻原井泉水
2 大山澄太
3 種田山頭火
問32 昭和14(1939)年10月、松山に来た山頭火は、その日すぐ敬愛する野村朱鱗洞のお墓を国宝の二王門のあるお寺で探しますが、所在不明で落胆します。そのお寺はどこですか。

1 石手寺
2 太山寺
3 御幸寺





問33 山頭火は折本句集を7冊刊行しています。その中から701句を選び、松山で一代自選句集を刊行しています。その句集の名は何ですか。

1 「草木塔」  
2 「柿の葉」  
3 「一草記」  






問34 昭和14年3月から約2ケ月間、山頭火は東行の旅をしました。その時念願だったある俳人の墓参を果たしました。その俳人とは誰ですか。


1 松尾芭蕉
2 小林一茶
3 井上井月

問35 山頭火は東行の旅を三度しています。東北の平泉で詠んだ俳句は、次のどれですか。


1 水音のたえずして御仏とあり
2 ここまで来しを水飲んで去る
3 春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏


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2011年12月4日日曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その6)

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問26 山頭火は、昭和13(1938)年、小郡の庵から湯田温泉に移り住みました。そこである有名な詩人の弟呉郎や家族と親しく付き合いました。その詩人とは誰ですか。


1 金子みすず  
2 中原中也  
3 佐藤春夫

問27 山頭火は北海道を除く、本州・四国・九州の日本全土を歩き、1万句以上の俳句を残しました。行乞行脚の末“おちついて死ねさうな草枯るる”と詠んで、自ら終焉の地と定めた都市はどこですか。

1 熊本市  
2 松山市  
3 防府市




問28 山頭火が松山へ行くときに、大山澄太が紹介した人物は誰ですか。


1 高橋一洵  
2 久保白船   
3 村瀬汀火骨

問29 松山で庵が見つかるまで、山頭火が泊っていた道後の宿はどこですか。

1 ちくぜんや   
2 ふなや
3 きどや

問30 山頭火が住むこととなった庵は、宇和島出身の著名な映画監督が妹のために建てた家でした。その映画監督は誰ですか。


1 森一生   
2 伊丹万作  
3 伊藤大輔


解答はここをクリックしてください。解答

「第5回俳句一草庵受賞俳句」の紹介。

秋の吟行俳句「俳句一草庵」の受賞句を紹介します。


吟行コースは、長建寺から一草庵でした。

一草庵で一人2句までとして投句をしてもらい、
その場で公開選句を実施し選ばれた俳句です。
 (投句71句、参加者36名+選者5名)  




俳句一草庵賞

檄(げき)が飛ぶ銀杏並木の校庭に     松山市 山下清治

(評)高校や大学の部活動の光景だろう。檄を飛ばすのはコーチや監督。練習でも試合でもいいだろうし、種目もいろいろ考えられるが、いかにも青春といった若々しさがまぶしい。(小西)

小西昭夫・特選

城山の風を受けたり吊し柿    松山市 森岡隆子

(評)以前にはどこの家庭でも見かけた吊し柿は田舎でもずいぶん減ってしまった。まして、都市部ではあまり見かけないが、城山の麓にはそんな風景も残っている。城山の風を受けた吊し柿がとてもおいしそう。城下町の風情が魅力的。

白石司子・特選
紅葉山血圧少し高めです     松山市 浅海好美

(評)住職さまのご好意で特別に開放してくださったという、長建寺「天岳楼」からの「紅葉山」は圧巻。
 それを見た、ちょっぴりオーバーヒート気味の感動が「血圧少し高め」。また、上五で切れてはいるが、中七・下五は、血圧が少し高めと思われるほど美しく紅葉した山の姿そのものでもある。韻文といえば文語ともいわれるが、この句の場合の口語「です」は、作者の生(なま)の感動を伝えるのにふさわしいと思う。

伊藤海子・特選       

寒鯉の跳ねて一山動きけり      松山市 井上由美子  

(評)古刹の静かな庭の池の冬の鯉が跳ねた。その驚きを「一山(いちさん)
<寺領のこと>」の響きと感じたのであろう。

本郷和子・特選

子規芭蕉山頭火句碑時雨来る   松山市 岩崎美世  

(評)この3俳人の句碑が揃っている場所は、長建寺だけであろう。
 この地を吟行した証の句である。紅葉の名園に時雨、それぞれに個性
 のある句碑、3人の名を並べても違和感はない。

熊野伸二・特選

武士(もののふ)の求道館(くどうやかた)や紅葉濃し      東温市 井門敬之

(評)吟行した長建寺池畔「天岳楼」は、築山の風情を鑑賞する和風建物。
これを作者は、武士が四季折々の自然に対峙し、人生を考える場―すなわち
「人間淘冶の館」と観た。そこには秋冷の中、鮮やかな紅葉がある。
静謐と情熱の見事な混交だ。

一草庵会場賞

片時雨後姿を追いかける     松山市 島川むる子

(評)「時雨の後姿」といえば、言わずと知れた山頭火だ。
「自嘲」と前書きのある「うしろすがたのしぐれてゆくか」の句がある。
時雨の季節、その形を追うのでなく、詩精神を追究したい作者だ。

松山フォークソングの大御所「テルミーズ」

2011年12月3日土曜日

「第5回俳句一草庵」の吟行風景です。

皆さん、今日12月3日は「山頭火さんの誕生日」です。

今から、130年前山口県の防府で生まれています。<明治15(1882)年12月3日>
生誕130年、山頭火案内人のおもてなしの神様のようなAさんが、お仏壇に山頭火さんの好きだった、おうどんと、お豆腐を供えてくれていました。

平成23年11月23日には、5回目を迎える「俳句一草庵」を開催日しました。
(吟行コースは、長建寺から一草庵でした。)

その吟行風景を紹介しておきます。
①長建寺前に集まった俳句仲間たち。
 ガイドが急遽、私にまわってきました。
 ふと思い出したのですが、西村京太郎ミステリー紀行「十津川警部が見た風景」が、
 BSテレビで放映。長建寺の句碑を紹介するということでしたが、結果的にはカットされたそうです。
「松山・道後十七文字の殺人事件」の舞台として。
亀井刑事が、俳句ポストに投句した俳句が特別賞に入選して、松山へ招待されるのです。
小説の中に「松山へ行ってわかったんですが、句碑が多いですね。石を投げれば句碑に
当たるといわれています。市内の句碑は、3百以上あると聞きました。俳句のメッカですね。
松山と関係のある俳人も、正岡子規、高浜虚子、中村草田男、それに、山頭火とー
それぞれのところで、山頭火の名前はでてくるのですが、俳句の話はありません。
1万2千あまりの句の中に、「血の匂い」「怨念」「二人が死ぬ」といった、不気味な言葉が
詠まれた「復讐」を宣言するような三句から事件が始まるのです。

テレビ局から問い合わせのあった、大島梅屋の句碑から、ガイドを始めました。


②山頭火さんと、高橋一洵さんの対面の句碑を見て、
斉藤茂吉に愛された「永井ふさ子」の一人墓へ向かいます。

③高橋丈雄さんのお墓を見て、高木和雷のお墓へ。
和雷さんは、山頭火、一草庵「十六夜柿の会」のメンバーです。
明治32年2月19日 松山市高砂町生れ、オリオン写真館店主。
平成元年1月5日没、90歳。
和楽院蕾誉圓鏡居士

 昭和15年10月10日 一草庵で最後の句会ありました。山頭火さんは、お酒を飲んで、いびきをかいて寝てました。
山頭火の枕元のに置かれていた和雷の句です。

祭の町は新しい下駄が歩く
さかなふと息する包丁といどる
夕煙家を巻きつつ柿うれてゐる

お通夜での追悼句会の句も紹介しておきます。

亡きあと菜がつけてある   和雷

山頭火の作った菜っ葉の漬物があったのでしょう。

④住職さんが特別に解放してくれた、書院づくりの「天岳楼」で句作に励みます。

色づきはじめた天岳楼から見る池泉庭園
天岳楼



2011年12月1日木曜日

一草庵「今月の山頭火句」(12月)

  自 嘲
うしろすがたのしぐれてゆくか


高倉健さんイメージの俳優・斉藤真さん
 昭和六年の句。句の末尾に「自嘲」とある。出家をしても捨てきれぬものを背負っている己を嘲ったのか、いや今の自分はまだ悟り切れていないと思う心が、悟りに近づいているのかも知れぬ。(ちとせ)

網代笠をかぶって歩く山頭火の姿を象徴しているような句だ。
この句は、昭和6年12月31日の日記にある。
日記には、「うしろ姿」とあり、層雲昭和7年3月号にも「うしろ姿」記す、一代自選句集「草木塔」で、ひらがなに改めている。



伊藤完吾氏によると、層雲発表当時は、さほど話題にならなかった。
師の井泉水でさえ、前書きの『自嘲」という言葉にこだわり、むしろ「留別」として
見送ってくれる友人への挨拶としたらよかったのではと。
山頭火は、一代句集に載せたときには、自嘲の文字に加えて、「昭和六年、熊本に落ちつくべく努めたけれども、どうしても落ちつけなかった、
またもや旅から旅へ旅しつづけるばかりである」とその深い思いを記している。


山頭火は大正十五年四月
分け入つても分け入つても青い山
と詠んで、味取観音堂を捨てて、行乞流転の旅に出たが、

7年後の昭和6年12月22日。
歩きつかれて第2の故郷・熊本に落ち付こうとし、「三八九」を発刊し新生活に入ろうとしたが、ままならならず、新天地を求めて長い旅に出るしかなかったのだ。
その旅は、安住の地も求めて、嬉野温泉、関門海峡を渡って川棚温泉に落ち着く、昭和7年6月1日までつづく。
そのとき、詠んだ句が
うしろすがたのしぐれてゆくか 
だった。
「青い山」から「しぐれ」の句へと変わる心境の変化が読み取れる。
師走の大宰府の町を、ずぶぬれとなりさまよう、
おのれのうしろ姿に浴びせられる世間の冷たい眼差しを感じている。

最後の仕事を終えて、うら淋しく帰るサラリーマンのうしろ姿さえ、連想できますね。

この句を有名にした、近木圭之介さんの昭和8年6月5日に撮影した山頭火うしろ姿の写真があります。
近木さん曰く
「昭和57年の秋、生誕百年を記念する山頭火展が下関大丸であった時、一人の女子大生が街角でふと目にしたポスター。
”普通の人の背中ではなかった。何か人生の重みを感じさせるうしろ姿だった。たまらなくなり、その足で観に来た。”
この言葉は、今もって私には忘れ得ぬ言葉となっている。」


白樺を幽かに霧のゆく音か     秋櫻子

の句が、ある本に紹介されていて、

上高地の白樺の中を流れる霧を、作者は旅の一日、深く眺めいっていた。
―その耳に幽(かす)かに、実に幽かに、音を感じた。
白樺にふれゆく霧の、音なき声に聞き流れてゆく音であろうか。
「…か」という形は、この場合に適切な技巧であります。
と説明があったが、

「か」の一字は、山頭火のうしろ姿の句の方が、ずっと重たいように思う。

山頭火には「か」の句の名句が多い。

笠も漏りだしたか
石に腰を、墓であつたか
おとはしぐれか
焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか

最後に、山頭火句の英訳を紹介しておきます。
   Self-reflection
The figure of  a man's back
     gradually  grows  faint
    in  the  icy rain          西村秋羅

一草庵ニュース「(演劇)なにもいらない 山頭火と放哉」の紹介!

劇団「俳小」を主宰されている俳優の斉藤真さんが、ひょいと「一草庵」に来てくれた
(11月30日)
http://www.haishou.co.jp/member/saitoS/index.html
そして、来年、24年3月21日から25日 東京池袋で公演される
演劇「なにもいらない 山頭火と放哉」の紹介をしてくださった。

「1部と」「2部」で構成されている。
「1部」
山頭火放哉架空の美人記者・和泉桂子さんとが繰りひろげる山頭火物語のようだ。
ときは、昭和15年10月1日の一草庵からはじまる。

能舞台、かのように「死者による語り」がはじまるのでしょうか。
突如、死者の放哉が現れて、山頭火と話はじめるようだ。
その放哉の姿は、取材する桂子さんには見えない。
桂子さんが、山頭火の実像に迫る、そして山頭火さんから放哉のことを聞くのだった。…

「2部」は、
社員旅行で松山に来て、嵐に遭って、「一草庵」に非難する企業の一行あり。
その夜、社長から会社の倒産を告げられる。
議論が熱を帯びる。
その中に、現代の若者から見た人間味溢れる山頭火像が浮かび上がってくる。

現代感覚溢れる竹内一郎さんの脚本は素晴らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=1VXx5Cs1xQU
(これから、内容は改善されながら、どんどん進化していくらしい、楽しみだ。)


 山頭火さんのことを、現在感覚で沢山の人に知ってもらえることは嬉しいことだ。

<あらすじ>の中に、山頭火は、個の中に内在する全体を見通している句を作れていない自分に苛立ちはじめる、とあった。

 山頭火は日記にも書いているが、「永遠を刹那に於いて把握する。
 個を通じて全体を表現する」のが、山頭火の求める俳句のようだ。


山頭火さんに成り切って考えてみると、なにかが見えてくる。

影響受けた俳人を3人に絞ると、荻原井泉水野村朱鱗洞尾崎放哉のように思える。
山頭火は、碧梧洞、井泉水の新傾向俳句の俳誌「層雲」に注目していたが、
大正2年に投句しはじめるのは、「自由律俳句の実作者としての朱鱗洞の句」に憧れてのことではないかと想像できる。
朱鱗洞は大正7年、悲しいかな26歳でなくなる。
その後、
山頭火は、大正8年から大正14年の間、「層雲」への投句はない

そして、大正15年4月、「分け入つても分け入つても青い山」の句を詠み、
行乞流転の旅に出た。
放哉の俳句に魅了されていた山頭火は、放哉亡き後、「層雲」誌上で異彩を放つのであった。
(ご存知のように、山頭火は敬愛した井上井月・尾崎放哉・野村朱鱗洞の墓参をしている。
 影響を受けた人たちである。それは彼の強い意志の現れであろう。)

 井泉水は、俳句は印象詩であると言ったが、
 山頭火、次のように云う。(大正4年)

 「私は最早印象だけでは―単に印象を印象として表白することだけでは
 満足ができないようになりました」。…俳句は「印象に即して印象の
 奥を探り、そこに秘められた或る物を暗示」する「象徴詩」でなければ
 ならない。(層雲 大正4年7月)
 印象詩として出発した我等の新しい俳句は象徴詩として完成
 されなければならないと「象徴詩論」を述べている。

 そして、昭和15年10月3日の一草庵日記に次のように記す。

 俳句性について
 印象の象徴化(刹那の永遠、全と個)
 結晶(圧縮にあらずして単純なり)
 身心の純化、平明にしてと透徹

 これが、山頭火が世の中の残した俳句についての最後の言葉である。

 大正4年から亡くなる昭和15年まで、俳句は象徴詩である、
 という考えは変わっていないようだ。

今日は、山頭火案内人月例交流会の日。

 理事長より、井泉水著「層雲の道」(昭和48年)の話があった。
 (P44ページの小さな冊子である。
 そこには、人間的魅力のある俳人として、
 野村朱鱗洞・尾崎放哉・大橋裸木・種田山頭火が紹介されている。)

 「山頭火」という号は、納音(なっちん)に依るものと思われ易いが、そうではない。
 おそらくは彼の気質が噴火山頭の焰の如き、はげしく燃えるものを理想としたのであろう、と紹介されているとのこと。

 以前からそのように思っていた。
 早稲田大学で文学を学び、文学で世に出たいと考えていたのであろう。
 かつて文芸誌での名前は火のように燃える山頭火であり、
 俳句の世界では、水の中に住む殻の覆われたタニシ、「田螺公」という名前を使っていた。俳句は、形にはまった殻の中の定型の俳句で遊んでいたのであろう。

 感ずる所あり、俳句で生きようとする。そのため「田螺公」をやめて、
 「山頭火」の号を使い始める。(大正2年)

 家も捨て、妻子も捨てた山頭火に残ったものは、俳句と鉄鉢だけであった。


 人間はひとりで生まれて、ひとりで死んでゆく。
 人間は孤独だからこそ、淋しいからこそ、人の愛情を求め、友を求める。

 やつぱり一人がよろしい雑草   山頭火
 やつぱり一人はさびしい枯草   山頭火


 今日、斉藤さんから頂いたシナリオの冊子を読ませていただき、
 このようなことを考えたが、これは山頭火倶楽部を代表するものではなくて、
 このように考える人もいるというメッセージです。
山頭火道後の酒 「一浴一杯」を持つ斉藤さん