今週の山頭火句

今週の山頭火句 ひらくより蝶がはなのうへ 山頭火
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2020年11月21日土曜日

山頭火80周年記念事業、伊予銀行地域文化活動の助成を受ける!

  まつやま山頭火倶楽部は、「伊予銀行地域文化活動助成金」を受けました。(11月5日)

  これを機に、山頭火没後80周年の記念として、次のことを行います。

山頭火が、生前に世に向かって公に出版した自選一代句集『草木塔』の誤謬版がでまわっています。山頭火さんが、天国で怒って泣いてようです。

よって、『草木塔』の誤謬訂正版を出版したいと思います。

もう一つは、昭和15年10月11日の追悼句会で満場一致で決まっていた野村朱鱗洞と種田山頭火の句碑建立がそのままになっているので、山頭火が毎日のように英霊に参拝していた護国神社に、そこにある万葉苑に山頭火・朱鱗洞の合同句碑を建てたいと考えています。









2018年11月30日金曜日

「阿波路の山頭火」

 徳島県立文学書道館で「阿波路の山頭火展」(平成30年11月10日~平成31年1月20日)が開催されている。
企画・展示したのは、亀本美沙さん、よくまとめてくれました。

山頭火倶楽部で研修をかねて来館。
 山頭火は、昭和14年10月1日、
  ひよいと四国へ晴れきつてゐる
と詠み、松山を死場所と決めて来松しました。やっと見つけた野村朱鱗洞の墓参をすませて、10月6日四国連路へ旅立つ。(10月6日から11月21日の47日間)
 小豆島の放哉の墓を訪ねて、11月26日結願・大窪寺を詣でる。山頭火句碑あり。
  ここや打留の水のあふれてゐる



阿波路の記録は、句日記と遍路日記(11月1日~3日)を残している。

10月26日、木村緑平に葉書を出している。
 いそぐやうな、いそがないやうな気分で歩いてゐます、これから阿波路に入りますが、何となく感傷的になって困ります、実ハ旅費が切れ、そして行乞は思うにまかせず、松山へ出るまでお立替願えませんでせうか、どうぞどうぞよろしく。
(阿波撫養局留置で)
阿波撫養局とは、今の鳴門郵便局である。
山頭火は、10月27日~11月3日(8日間)阿波路を遍路する。
野宿を繰り返しながらの撫養街道の山頭火の句がいいので紹介しておく、

 月夜あかるい舟がありその中で寝る
 泊めてくれない折からの月が行手を
 銀杏いろづくその下でお昼にする
 枯草しいて月をまうえに
 まどろめばふるさと夢の葦の葉ずれ
 旅空ほつかり朝月がある

山頭火が11月1日に立ち寄った「阿波十兵衛屋敷」を見学し、帰路に着く。



2012年6月3日日曜日

一草庵から石手寺地蔵院への道

  初夏のある日、かつて山頭火も辿ったであろう一草庵から石手寺地蔵院への道を、歩きました。行程およそ3キロメートル。
  大川沿いにある桜の古木に何かが見えました。近寄ってみるとヤゴから脱皮したばかりのトンボが、羽を乾かしています。生まれたばかりの透き通った羽に、周りの新緑が柔らかく反射していました。俳句を詠めない私は、いつも思います。山頭火ならどう詠むのだろうと。

  遍路道を東へ歩くことおよそ10分ほどで、俳句の道の山頭火句碑があります。(この句碑については以前紹介しました。その記事はここをクリックしてご覧ください)そこから熱田津の道を東へ行くと、道後温泉商店街です。山頭火は道後の湯もとても気に入っていました。

  朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし

 
  道後には山頭火や子規も訪れた宝厳寺常信寺などや、山頭火の句碑など見どころはたくさんありますが、今日はひたすら石手寺に向かいます。道後の賑わいを過ぎ子規記念博物館前をさらに東へいくと、左上に山頭火も句会に来たことのある義安寺が見えてきます。ここはその昔河野氏滅亡の折多くの家臣が自刃して果てたという古刹です。道後湯築城主河野氏とその家臣に思いを馳せながら義安寺に手を合わせ、先を急ぎます。道後から1キロメートルほど進んだところに、最近山頭火の句碑が建てられました。
   

分け入つても分け入つても青い山
 この句碑からほんのしばらく歩くともうそこは四国霊場五十一番札所石手寺の前です。参道には土産物などの店が少し並んでいます。店が途切れた右側に山頭火がよく訪れた地蔵院があります。
 山頭火は、昭和14年10月1日終の住処を求めて宇品港を出発、高浜港にやって来ました。
     ひよいと四国へ晴れきつてゐる
     秋晴れの島をばらまいておだやかな
 松山へ着いた山頭火は、大山澄太の紹介で高橋一洵を訪ねます。その足で長年の念願だった「層雲」の天才俳人野村朱鱗洞の墓所を求めてこの地蔵院を訪れたのです。しかし、ここには朱鱗洞の墓はありませんでした。しかし、これがきっかけで、山頭火はその後もときどきこの地蔵院を訪れています。
 写真にある門をくぐったすぐ左前に、現在は、山頭火の句碑と石造りの鉄鉢があります。

  うれしいこともかなしいことも草しげる 

 写真左下の石の鉄鉢には、次の句が彫られています。
    鉄鉢の中へも霰

 撮影の時刻が悪く、見えにくい写真になってしまいました。
 ここ石手寺は地蔵院を少し過ぎたところに国宝の二王門があり、そのほか三重塔などの7つの重要文化財があります。
 一草庵からわずか3キロメートルほどの道のりの中に、ぎっしりと歴史や文化の詰まったコースです。ぜひ一度歩いてみてはいかがですか。

2012年4月3日火曜日

太山寺の山頭火句碑を訪ねて

  春の朝、柔らかな日差しに誘われて、第52番札所「太山寺」にある山頭火句碑を目指し、一草庵を出発しました。
山頭火がどこを通って太山寺に行ったのか、詳しいことは私にはわかりませんが、おそらく遍路道を通ったのではないだろうかと思い、今回は一草庵前を通る遍路道を選びました。この遍路道は左の写真にあるようにずっと「大川」沿いを歩く道です。山頭火はこの川を眺めながら

    濁れる水の流れつつ澄む

と自らの境涯を詠んだと言われます。


今は花の季節です。大川沿いにはたくさんの桜が咲きはじめています。


一草庵から少し下ったところ、上の写真の桜の向こうに「千秋寺」があります。
千秋寺の境内には、山頭火の

トマトを掌に、みほとけのまへに、ちちははのまへに

の句碑があります。
来迎寺の桜
また、一草庵の近辺は寺町です。その境内にみごとな桜が植えられているお寺もあります。千秋寺からさらに先へ進むと、松山大学の薬草園があります。そこからしばらく大川に別れ右へ折れます。2分ほど行くと、「来迎寺」が右手にあります。ここの桜も立派です。


来迎寺をぐるっと回った裏側には日露戦争のとき捕虜となった人々を、現在まで手厚く祀っている「ロシア人墓地」があります。


伊予節にも歌われる十六日桜
また、江戸時代から全国にその名前を知られた「十六日桜」が植えられています。伝説のとおり早咲きの桜はもうすっかり葉桜になっていました。

その上にある「龍穏寺」には句碑が建てられており、西行や芭蕉と並んで山頭火の俳句も刻まれています。

 咲いて一りんほんに一りん



法華寺の桜





ちょっと寄り道をしてしまいましたが、元の道にもどりましょう。
法華寺の桜


来迎寺を少し行ったところにある法華寺の桜もまた見事です。次々と多くの人たちがそれを見に訪れていました。
法華寺を過ぎると、右側に「長建寺」が見えてきます。この境内も見るべきものが多々あります。写真の門を入って右を見ると、山頭火の立派な句碑もあります。

もりもりもりあがる雲へあゆむ






長建寺からまた大川沿いに遍路道は続きます。


遍路道がわからなくなって、迷うんじゃないかと心配しましたが、それは杞憂でした。さまざまな標識が案内してくれました。
まさしく山頭火が詠んだ俳句そのものでした。

石の指さすままに花野のみちはまよはず来た




一草庵からおよそ8キロメートル、やっと太山寺に着きました。一の門、二の門をくぐり、木立のそびえる荘厳な雰囲気の参道の傍らに山頭火の句碑が建てられていました。

                    もりもりもりあがる雲へあゆむ

  

この句は、昭和15年9月この太山寺で詠まれたといわれています。この雰囲気の中に佇む山頭火はいったいそのとき何を想ったのでしょうか。

四国八十八箇所霊場第五十二番札所太山寺本堂(国宝)
句碑をしばらく眺めた後、本堂へ行き般若心経を唱えました。そして、今日ここに生かされていることに感謝しつつ太山寺をあとにしました。

2012年2月17日金曜日

新たな山頭火句碑を訪ねて、石手寺沿い句碑散策。

2月8日(句碑除幕)。
道後温泉から石手寺沿いに、子規・漱石・山頭火の句碑が設置された。
松山北ライオンズクラブ30周年記念事業によるもの、石は西条の青石。
   分け入つても分け入つても青い山                       山頭火
   送子規 御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花     漱石
     砂土手や西日をうけてそばの花                            子規
早速、句碑散策へ出かけました。

前は道後、後ろが石手寺
子規記念博物館で、子規遺稿「散策集」(200円)を買って。

正岡子規は、明治16年6月10日上京。
明治28年8月25日、松山へ帰省。9回目の帰省、これが最後の帰省となる。
「自分のうちへ行くのかと思つたら自分のうちへも行かず、親類のうちへも行かず此処にいるのだといふ」
(「ホトトギス」での漱石追憶記)
子規は「漱石の寓居の一間を借りてー桔梗活けてしばらく假の書斎哉」と詠ず。
この書斎とは2番町の愚陀佛庵、毎日のように句会が開かれる。
9月20日。
柳原極堂は、子規を訪問。「保養中の子規が石手寺まで散歩しよう。君も同行し給え」と、子規がいうので二人で吟行。その時の、松山近郊5回の散歩吟行集を子規は「散策集」と題した。
   草の花少しありけば道後なり      子規
   砂土手や西日をうけてそばの花  子規
この日、この句などを詠む。
  ※砂土手  現在の松山商業高校裏手あたりから松山東高校の西手をへて北へ約1キロ、
         南北に長く横たわる小高い砂丘、もと松山城防衛のために築かれたもの

「散策集」は友人近藤我観が保管していたが、戦災で消失するのだが…。
昭和8年6月、極堂が病床の我観を見舞った時、その存在がわかり、
子規全集にも収録されていなかったものが、俳句誌「鶏頭」に公表される、はじめて世に出た。
散策集のことなどは、「友人子規」柳原極堂書(昭和18年)を参考にされたし、名著なり。

右「友人子規」、装丁・下村為山

漱石の句碑は、
子規が10月19日、松山を立ち帰京する時、
中ノ川・蓮福寺の送別会での句。
句の頭に「送子規」と題して
   御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花   
と詠む、子規は再び故郷松山の風景を見ることはなかった。

この山頭火の句は、一草庵に庵主がいたころ、いつも床の間に掛けられていた。
今、子規博に保存されている半切の書「分け入つても」を刻む。


山頭火は道後温泉の帰り、ちびた下駄を履いて、
この道を歩いて、石手寺地蔵院・水崎住職を訪ねている。
地蔵院には、平成2年10月11日建てられた
 うれしいこともかなしいことも草しげる  山頭火
の句碑がある。
 山頭火の句碑は、個人宅の句碑を入れると1000基を超えているであろう。
 松尾芭蕉の句碑約3300基についで多い。
 人気のバロメータのようだ。

※山頭火句碑の前に、歩く遍路の達人・中務茂兵衛の壱百十七度目の道標があった。茂兵衛という人は、四国八十八ヵ所を280回も回ったという超人。280回×88ヵ所=24640ヶ寺、総距離約40万キロ。
茂兵衛さんは、山口県周防大島の人で、寅さんの歌を作詞した星野哲郎の生まれた島として有名なみかんの島。
 山頭火も生野島の名ある陶芸家・迦洞無坪を度々訪ねている。

<石手に子規、漱石、山頭火句碑を訪ねて>
「俳句」という言葉を世に出し広めたのは、子規さん。
「俳諧の連歌(多行詩)」を「俳句(一行詩)」に集約した。
そして、「写生」という手法を取り入れる。
漱石は、子規の影響により俳句にのめり込む。そして俳句的小説「草枕」を発表する。
子規没後、「ホトトギス」は虚子、「日本及び日本人」の「日本俳句」を碧梧洞が引き継ぐ。
碧梧洞は「新傾向運動」を展開し、「新傾向に非ざれば俳句に非ず」といわれる最高潮までに盛り上げた。
明治44年新傾向の俳句雑誌として「層雲」を荻原井泉水が創刊する。
その中より「新しい俳句」を作る山頭火や放哉が産まれる。

「俳句研究」の編集長をしていた高柳重信によると、(昭和48年「俳句とエッセイ」創刊号)
定型派俳人は、山頭火に対しても、放哉に対しても、かなり冷淡で、積極的な関心をもたなかった。
俳句および俳壇の歴史として、
大正末期から昭和初頭にかけての四Sの登場、昭和6年から15年にかけての新興俳句運動の勃興と終焉、そして人間探求派の拓頭、以後の戦後俳句のさまざまな展開へと続いてゆく。
この歴史に自由律俳句の業績、それに先立つ新傾向の軌跡が脱落している。
保守的な定型派の俳人にとって、子規没後から、虚子の復活にいたるまでの歳月は、いかがわしい俳句が氾濫した、おぞましい時間の流れとして、触れたくない、知りたくない時代なのだろう。
それにしても、山頭火や放哉はその時代を生きぬいた自由律派の俳人だった。
…いま、しきりに読まれている山頭火は、もっぱら山頭火の放浪日記であり、その日記の内容によって読み方を強く限定されてしまった山頭火の俳句である。…
山頭火の俳句は、その異常な日常を誌した日記の中に置かれると、急に魅力を増してくるのだとも言い得るのである。そこに存在する山頭火は、多くの読者たちにとって何ごとかの身代わりを演じていることになる。極端に言えば、そうしたときに限って、山頭火の俳句は生々としてくるのである。


今、山頭火の句は、小学校、中学校、高校の教科書にも取りあげられ、教えられているという。
山頭火の生きざまは沢山の本によって、紹介され尽くしているようだが、
今こそ、俳句に生きた「山頭火俳句論」の発表が望まれる時期がきたのではないだろうか。!?

2012年1月21日土曜日

野福峠の山頭火句碑(愛媛県西予市)

年の初めの山頭火詣は、野福峠の句碑から始まりました。
 ちょうど薄日のさす穏やかな天気に恵まれた日、一度行ってみようと思いながら通り過ぎていた野福峠を訪れました。
 野福峠は、この地域では有名な桜の名所です。その桜のかなたの海の眺めは絶景だということです。野福峠へは、松山自動車道西予インターを降り国道56号線を南へ向います。西予市のはずれにある「法華津トンネル」の手前で「明浜」に向け右折、県道45号の「野福トンネル」を過ぎて木々の間に輝く宇和海を下に眺めながら1~2分、つづら折の道を下ります。


真新しい2車線道路が大きくカーブを描く所にめざす「野福公園」がありました。

 公園は道路わきにあり桜の頃には花見客がたくさん訪れるのでしょう。写真の左奥を横切っているのが県道45号線、真ん中に見えるのは旧道路です。句碑は写真の中心にある東屋の向こう側にありました。

「さくらさくらさくさくらちるさくら」
 句碑には両面に同じ句が彫られています。この句は「行乞記」昭和7年4月15日に掲載されています。同じ日記に「遍路さみしくさくらさいて」という句も並べられています。その他3月、4月の日記にはさくらの句がたくさんあります。「自嘲の旅」(村上護先生の「山頭火年譜」より拝借)にいる山頭火の心情と、明るい桜花との対比が華やかだけれど悲しい句だと勝手な解釈をしてしまいました。

2011年9月4日日曜日

松山文学散歩「山頭火句碑めぐり」<道後・大黒屋前>

松山市が城下町としての歴史をテーマに、子規記念博物館のある道後温泉周辺から平和通りを経由し、庚申庵までの間を「俳句の道」と位置づけ、正岡子規などが詠んだ俳句の中から、松山城・城北練兵場・古町などにゆかりのある俳句を選んで、句碑を設置しました。
ずんぶり湯の中の顔と顔笑う
 
 句碑の建てられている周囲には、うどんと釜飯が特に人気の大黒屋さんやお米屋さんが経営するおしゃれでヘルシーな人気の「カフェのらの」さんなどがあります。
大黒屋さんの前にたつ山頭火句碑

「カフェのらの」さん

 また、俳句の道から道後温泉街にむかう「熱田津の道」。そこには造り酒屋の水口酒造さんとその経営する「にきたつ庵」もあります。松山市の道後温泉本館も近く、湯上がりの一杯を求めて、観光客らも訪れます。お目当ては、地ビール「道後ビール」でしょうか。

水口酒造さんと熱田津の道


炎天の下すずやかな流れが涼を誘います。

山頭火の句碑を見がてら、ちょっと周辺を食べ歩きするのもいいものです。


ここは遍路道でもあります
 水口酒造さんでは、山頭火さんの酒「一浴一杯」を製造・販売しています。

にきたつ庵と山頭火の酒「一浴一杯」