一草庵の庭には、山頭火を偲んで4基の句碑があります。
春風の鉢の子一つ(はるかぜのはちのこひとつ) 山頭火 昭和8(1933)年3月19日、山口市小郡町での句。『其中日記』に、句友3人が来庵、「其中庵稀有の饗宴がはじまった。よい気持で草原に寝転んで話した、雲のない青空、そして芽ぐつつある枯草。道に遊ぶ者の親しさを見よ。夕方、それぞれに別れた、私は元の一人となった、さみしかった。」と記し、この句がある。「鉢の子」は、托鉢僧が使う容器。 厳しい冬は「鉄鉢」(てっぱつ)暖かい春は「鉢の子」と詠み方を変えている。 昭和48年3月21日建立 |
濁れる水のなかれつゝ澄む(にごれるみずのながれつつすむ) 山頭火 死の1か月前、『山頭火句帳』の昭和15(1940)年9月8日の項に、「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されている。 この庵の前を流れる大川を詠んだ句であるが、自らの人生を観じた句でもある。20年近い流転孤独の生活の悩みと寂しさに、濁れる水のように心を曇らせながらもなお、逞しく自己をむち打ち続け、そこから自己の魂を取り戻そうと努めた山頭火の境涯が重なる。 平成2年10月10日建立 |
一洵君に おちついて死ねさうな草枯るる(おちついてしねそうなくさかるる)山頭火 昭和14(1939)年12月15日、高橋一洵が奔走して見つけたこの草庵に入った山頭火は、日記に「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その苦労に感謝し一洵にこの句を呈した。「死ぬことは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じ」た山頭火が、一草庵を終の住処とした境地である。 翌年3月には、改めて「おちついて死ねさうな草萌ゆる」と詠んでいる。 平成6年10月10日建立 |