今週の山頭火句

今週の山頭火句 さてどちらへ行かう風がふく  山頭火

2012年1月8日日曜日

一草庵「今月の山頭火句」(1月)

鉄鉢の中へも霰

昭和七年の句、熊本に落ちつこうとしたがが駄目で又もや漂泊の旅に出るのである。冬の厳しさの中での行乞。鉄鉢を打つ霰の音がこの短い句の中から痛いほどに感じられる。(ちとせ)

この句は、今から80年前の昭和7年1月8日に福岡県遠賀郡芦屋町で作られた。
最初は鉄鉢(てっぱつ)ってよく解らなく、普段目にすることのないものなので、余り鑑賞していなかったが、今では一番好きな句となった。
鉄鉢とは文字どおり「鉄の鉢」のことで、僧侶たちが托鉢の時に用いる容器である。
そしてこの<鉄鉢>は、仏道修行を象徴する、また山頭火そのものを象徴しているとも言える。
書・梅岡ちとせ

「草木塔」には、次のように紹介されている。

昭和六年、熊本に落ちつくべく努めたけれど、
どうしても落ちつけなかつた。またもや旅から
旅へ旅しつづけるばかりである。
         自嘲
 うしろすがたのしぐれてゆくか
 鉄鉢の中へも霰
 いつまで旅することの爪をきる

 鉄鉢の句は、昭和7年3月号の「層雲」に発表されるや、誌上で活発に論議される。
 批判的な論評も繰り返されるが、ついに山頭火はこの句を変えなかった。
 「…財布の底には二十銭あまりしかなかった。私は嫌でも行乞しなければならなかった。
 私は鉄鉢をかかえて、路傍の軒から軒へ立った。財法二施功徳無量檀波羅蜜具足円満
 その時、しょうぜんとして、それではいひ足らない、かつぜんとして、霰が落ちてきた。その霰は
 私の全身全心を打つて、いひかえれば、私の満心に霰を浴びたのであつた。
 笠が音を立てた。法衣も音を立てた。鉄鉢は、むろん、金属性の音を立てた。…」
一草庵、昭和16年3月21日建立(除幕10月12日)

 <自己流解釈を。>
冬の寒い日、托鉢してもどこの家も扉を開いてはくれない。
 一陣の孤独な霰が天から降ってくる。鉄鉢の中には白い米は一粒もない。笠に法衣にそして鉄鉢の中へも白い霰は音をたてて落ちる。「中へも」はそれだけではない、山頭火の心の中へもキーンという音を立てて響いたのであろう。山頭火は「無(む)にはなれるが、空(くう)はなかなかなれない」と思っていたが…。
 霰が鉄鉢を打った瞬間、「空」の状態を得た。霰をありがたいムチとしていただのだった。「空」とは?あの大空に浮かんだ雲のようなもの。雲は刻々とその姿を変える。そしていつの間にか消えてなくなってしまう。
世の中のものは無常なり、この世に存在するものは永遠不変なものはありえない。そのようなものにあれこれと思い患っても仕方がないと悟ったのかも。
鉄鉢の中に霰が落ちた、という目の前の刹那の風景から読み取る。鉄鉢の中へはお米だけでなく霰も降り込む、世の中とはそのようなものだと悟ったのであろうか、黒染めの法衣、鉄色の鉢に跳ね返る、白と黒の世界、その単純化された言葉に余韻が残る。

※布施の心の尊さを述べた偈文、「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満」(ざいほうにせ  くどくむりょう  だんばらみつ  ぐそくえんまん)。布施していただくお金や物は、財の布施であり、読経は法の布施これは共に布施である、その心がこの世の中に充満すればその利益は計ることのできない大きな功徳であるという意味。

山頭火句の英訳を紹介しておきます。 Teppatsu no naka e mo arare

Into my begging bowl,
  too ,
   hailstones.       八木亀太郎

この句を最初に英訳した日本人は、松山商科大学の学長をされた八木亀太郎先生だった。
アメリカ俳句の父ハロルド・ヘンダーソンに頼まれた、昭和43年のこと。

先生曰く、簡単に訳すると、その句は“私の鉄鉢の中へも 霰が降った”となるが、ヘンダーソン教授が指摘したように英語を話す読者には次のように翻訳したほうが理解されやすいと示唆している。

Striking(打つ)
  my begging bowl, too(私の鉄鉢にもまた)
     hailstones….(霰が)

八木先生のアメリカ人読者への英文を少し紹介しておきます。
 
A single glance shows that it is defective in form, lacking five syllables.
But it is so full of implication that it makes up for this formal defect.
Its significance is strengthened by its brevity. Chills run up my spine when I read it in the Japanese original.
The haiku is alive,every word asserts its maximum. It explains nothing,it is actual experience in the actual present. It expresses eternity in a moment, the universe in a particle; sound and sight strangely mingle in
its impact. This is the essence of haiku.
 
一見するとこの句は五つの音節を欠き、完全な形をなしていない。しかしそれは、含蓄にとんでいるがゆえに、この形式的欠点を補うに充分である。その意味が簡潔さによって強められている。
私はこの句を日本語の原文で読むと背筋がぞくぞくするのをおぼえる。俳句は生きている。
その一語たりとも他に置き換えることのできない言葉である。
 この句の内容は実際に体験したことで、説明することはない。しかしこの俳句の表現しようとした
ところは、霰の打つ瞬間における永遠であり、粒子のなかの宇宙であり、音と光景が奇妙にからみ
あう緊張感である。これこそが俳句の真髄である。

2012年、年の始の「一草庵風景」を紹介しておきます。
一草庵縁側からお城が見えます
一草庵前・大川の青サギ