今週の山頭火句

今週の山頭火句 すわれば風がある秋の雑草  山頭火

2012年10月31日水曜日

「濁れる水の流れつつ澄む」山頭火が、          NHKで放送されますよ。


全国を放浪しその生涯を四国で終えた、俳人・種田山頭火。山頭火が詠んだ1万を超える俳句は現代を生きる人たちの道しるべになっている。死の1か月前に読んだ句が「濁れる水の流れつつ澄む」。酒に溺れ、自殺を試みたこともある「濁った」人生が、四国を旅しながらなぜ「澄んだ」と思える境地に達したのか。俳優・竹中直人が、山頭火を演じながら四国各地でその足跡をたどる。そして山頭火の俳句に込められた魂の言葉を見つめる。
一草庵での竹中直人さん

これは、NHK松山放送局の「しこく8」の番組紹介文です。
放送時間は、11月2日(金)20:00~20:45。
 今回の山頭火役、そして案内人は、竹中直人さんです。
一草庵で、撮影現場を拝見することができました。
鼻歌交じりの竹中さん、気楽に写真を撮らせてくれました。
ざっくばらんな人です、少しお話することができました。
映画「無能の人」と「三文役者」の話をしました。
つげ義春の「無能の人」の最後の”蒸発”に登場する井上井月(いのうえ・せいげつ)の話を。
”芥川龍之介に見出され、山頭火に慕われ、つげ義春が漫画に描いた乞食俳人井月のことです。
竹中さん、すっかり忘れていたようでしたが、もう一度読んでみようと、すぐさま手渡した漫画本を読みはじめました。殿山泰二さんを描いた映画「三文役者」、私の好きな映画だったので、そのお話もしました。

つげ義春・漫画「無能の人」
一草庵で「無能の人」を読む竹下直人さん
<初監督・主演の『無能の人』は、第48回ヴェネチア国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。ブルーリボン賞主演俳優賞を受賞
映画『シコふんじゃった』、『Shall we ダンス?』では、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。初対面は、NHK大河ドラマ『秀吉』でした。>



 「無能の人」の巻末に、つげさんの「乞食論」が載っていました。
その中に、「身心脱落(しんじんだつらく)」の言葉がでてきます。
「道元」を読んだとき「身心脱落」という言葉がありまして、あ、と思ったんです。
道元のいう悟りの状態とはこういうことなのかと…・
スポーツやって無我になるなんて程度のもんじゃないんですよ。…
道元にいわせれば、無になれば、自が消えれば、必然的に他も消える。…自が消滅すれば対立関係もなくなる。したがって天地と一体になるというんだけれど…。したがって、現在は不安のかたまりだけど、自由自在というか、何もわずらうことも不安もないですね。…

さて、”濁れる水の流れつつ澄む”どんな放送になるのでしょうか。
竹中直人の山頭火、四国のどこを旅したのでしょう。観音寺有明浜、徳島日和佐・室戸岬、高知仁淀川町でも撮影をされたらしいです。
 次のような話を、竹中さんとお話しました。私の一方的な話でしたが…。
山頭火をどのように思いますか。
迷いながら、何かを求める
純粋で、素直な人だと思うとのこと。
一草庵の板に張り付けられた山頭火の写真
しかし、板の上に貼られた山頭火の写真を見て、怖いといわれました。
そして、来年計画されているの映画「山頭火」(中山節夫監督)の話をすると、即座に是非やってみたいとの返事が、かえってきました。

行く川のながれは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず…。
この鴨長明の『方丈記』を、見事に!一句にしたためたのが、人生の終着駅・松山に辿り着いた山頭火のこの句

 濁れる水の流れつつ澄む 
 
ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
軽くうたっているところがいいですね。(この句は、山頭火が昭和15年9月8日詠む)

 鴨長明は、後白河が天皇だった頃に生まれ、死んだのは後鳥羽院の時代。
平清盛は貴族の社会を巻き取り、「武家の社会」をつくります。しかしあっという間に、平家も滅亡し、そして源氏も滅亡してしまうのです。
 長明は隠遁し、58歳のときに『方丈記』を綴ります。
山頭火は、57歳の時、この「濁れる水」の句をつくります。
さて、山頭火の生きた時代、
昭和12年には、日中戦争がはじまり、昭和16年12月8日に、我が国は真珠湾を攻撃するのです。そして悲惨な世界戦争が始まります。
そして今まさに、閉塞感のある、世界中が未来に期待のもてない時代を迎えています。


一草庵の縁側で、俳句を推敲する


「濁れる水の流れつつ澄む」の句碑を見つめる
そして、山頭火は、句の中に、句のむこうに、希望するかのような「澄んだ」世界をも描く。
その無常観は、弱き者たちへの温かいメッセージなのでしょうか…。
 (Yさんに、全国放送してくださいと、頼んでおきました。)

忘れていました、栃木の黒澤さんがこのテレビに出るらしいです。
逆打ち遍路しています、今一草庵にいますと、電話をいただいたのですが、
残念ながら、お会いすることができませんでした。
NHKさんに、取材を受けたそうです。
黒澤さんのことは、「一草庵だより11号」に紹介させていただきました。
歩き遍路7年の記録「遍路つれづれ、山頭火を訪ねて」をしたためて、その本を一草庵に送ってくれた人です。きっと素敵な女性でしょう。

2012年10月30日火曜日

『第3回山頭火検定」の試験問題です。<その8>

 検定問題にチャレンジしてみませんか。

問36 松山には江戸・明治・昭和の俳人ゆかりの庵が三つあり、「三庵めぐりコース」があります。その一つは子規が「伊予一番の俳人」と賛え、小林一茶も二度訪ねて来た栗田樗堂が建てた庵です。その庵の名は何ですか。

1 庚申庵
2 愚陀仏庵
3 一草庵

問37 山頭火の命日はいつですか。

1 昭和15(1940)年10月1日  
2 昭和15(1940)年10月11日   
3 昭和15(1940)年12月3日

38 昭和11(1936)年「層雲」創刊25周年記念大会に出席しています。
そして「ほつと月がある○○に来てゐる」という句をよんでいます。○○とはどこですか。

1 長野
2 信濃 
3 東京










問39 山口県川棚温泉で結庵したい心を句に詠んでいます。次のどの句ですか。
川棚温泉・妙青禅寺

1 花いばら、ここの土とならうよ
2 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
3 はだかで話がはづみます







問40 山頭火は、昭和13(1438)年11月其中庵を去り、湯田温泉に住みつきますが、その時の心境を詠んだ句はどれですか。

風来居

1 一羽来て啼かない鳥である
2 ひとりひつそり竹の子竹になる
3 ふるさとの水をのみふるさとの水をあび








解答はここをクリックしてください。 [解答]

「第3回山頭火検定」の試験問題です。<その7>

 検定問題にチャレンジしてみませんか。

問31 昭和14(1939)年10月、松山に来た山頭火は、その日すぐ敬愛する野村朱鱗洞のお墓を国宝の二王門のあるお寺で探しますが、所在不明で落胆します。そのお寺はどこですか。

1 石手寺
2 太山寺
3 御幸寺




問32 山頭火は折本句集を7冊刊行しています。その中から701句を選び、松山で一代自選句集を刊行しています。その句集の名は何ですか。

1 「一草記」  
2 「柿の葉」  
3 「草木塔」  



問33 昭和14年3月から約2ケ月間、山頭火は東行の旅をしました。その時念願だった信州のある俳人の墓参を5月3日に果たしました。芥川龍之介に見出され、、山頭火にも慕われ、つげ義春も漫画で描いた、その俳人とは誰ですか。
映画「ほうかいびと」-伊那の井月

1 松尾芭蕉
2 小林一茶
3 井上井月



問34 山頭火は東行の旅を三度しています。東北の平泉で詠んだ俳句は、次のどれですか。
昭和11年6月26日の日記
 毛越寺旧跡、まことに滅びるものは美しい!
中尊寺、金堂。あまりに現代色が光っている!
石巻市日和山には、山頭火の歌碑が建てられている。
水底の雲もみちのくの空のさみだれ
あふたりわかれたりさみだるゝ

1 水音のたえずして御仏とあり
2 ここまで来しを水飲んで去る
3 春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏

問35 友人・兼崎地橙孫の書で刻まれた「俳人種田山頭火之墓」は、防府にありますが、「解脱院山頭耕畝上座」という法名の種田家の墓があるお寺は何というお寺ですか。         

1 熊本・安国寺   
2 防府・護国寺   
3 松山・龍穏寺

解答はここをクリックしてください。 [解答]

2012年10月29日月曜日

山頭火・行乞記の故郷「宮川屋」のこと…。

熊本県人吉市の那須先生から、お便りをいただきました。
山頭火ファンの共有の情報としたいので、公表させていただきます。

「山頭火行乞記」の書き出しの名文は、人吉の宮川屋という宿屋で生まれました。

その「山頭火の宮川屋」の所在地が、謎のままで特定できてなかったのですが、ついに判明したのです。

実は、「第3回山頭火検定」にチャレンジしてくださった、人吉のOさん、Uさんから聞いた「宮川屋」の話を、2012.10.9のブログに紹介しました。
     http://santokaclub.blogspot.jp/2012/10/blog-post_9.html

”…この行乞記の序文を記した人吉の宮川屋の所在地がやっと判明したそうです。
「宮川屋を検証する会」の歯科医をされている那須智治さん(71)の調査の結果です。
その場所は、昭和19年の山田川山津波によって流出され跡形もなくなっているそうです
現地は復旧されないまま山田川河川敷となり、宮川屋前の道路には出町橋が継ぎ足されているそうです。”

 那須先生からの連絡、「出町橋」は以前はコンクリー橋に木造の橋を継いでいたそうですが、昭和49年7月に新しいコンクリートの橋ができ、今はその姿は残っていないそうです。

 宮川屋を知っている方、古老の方から聞き取って検証・確定することができたそうです。
頂いた資料を紹介します(那須歯科病院・那須智治氏提供)。
 人吉では、文化遺産として、人吉市の活性化につなげようと、「人吉・球磨 山頭火の会」を立ち上げるそうです。
 そのうち、出町橋に「山頭火・宮川屋跡地」として、その時に詠んだ

 焼捨てて日記の灰のこれだけか  山頭火

の句碑ができるかもしれません。

2012.8.26 週刊ひとよし

出町橋今昔

昭和19年以前の人吉出町橋界隅

「第3回山頭火検定」の試験問題です。<その6>

 検定問題にチャレンジしてみませんか。

松山城
問26 山頭火は北海道を除く、本州・四国・九州の日本全土を歩き、1万句以上の俳句を残しました。行乞行脚の末“おちついて死ねさうな草枯るる”と詠んで、自ら終焉の地と定めた都市はどこですか。

1 熊本市  
2 松山市  
3 防府市

問27 山頭火が松山へ行くときに、大山澄太が紹介した人物は誰ですか。

1 高橋一洵  
2 久保白船   
3 村瀬汀火骨

問28 松山で庵が見つかるまで、山頭火が泊っていた道後の宿はどこですか。

1 ちくぜんや   
2 ふなや
3 きどや

問29 山頭火が住むこととなった庵は、宇和島出身の著名な映画監督が妹のために建てた家でした。その映画監督は誰ですか。
映画監督・伊藤大輔

1 森一生   
2 伊丹万作  
3 伊藤大輔








問30 山頭火の終の住処は「一草庵」と名付けられました。その命名者は誰ですか。
種田山頭火と大山澄太

1 荻原井泉水
2 大山澄太
3 種田山頭火













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「第3回山頭火検定」の試験問題です。<その5>

 検定問題にチャレンジしてみませんか。

「フランス語山頭火句集」より
問21 酒好きの山頭火が、山口県美祢市で酒関連の句を詠んでいます。その句はどれですか。

1 よい宿でどちらも山で前は酒屋で
2 ほろほろ酔うて木の葉ふる
3 酔うてこおろぎと寝てゐたよ











問22 川棚で結庵できなかった山頭火は、句友の支援で山口県小郡に結庵しました。その庵の名前は何ですか。

昭和50年頃の其中庵

1 一草庵
2 其中庵
3 湯田庵

問23 小郡に庵を見つけてくれた層雲の仲間は誰ですか。

1 久保白船  
2 大山澄太  
3 国森樹明

問24 温泉好きの山頭火は、ある温泉で「ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯」と詠みました。その温泉はどこですか。

1 道後温泉
2 湯田温泉
3 有田温泉

問25 山頭火は、昭和13(1938)年、小郡の庵から湯田温泉に移り住みました。そこである有名な詩人の弟呉郎や家族と親しく付き合いました。その詩人とは誰ですか

1 金子みすず  
2 中原中也  
3 佐藤春夫




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「第3回山頭火検定」の試験問題です。<その4>

 検定問題にチャレンジしてみませんか。

問16 事件後、熊本市坪井町にある「千体仏」で有名なお寺に預けられ、心機一転・修行し禅門に入ります。「けふも托鉢ここもかしこも花ざかり 耕畝 」の句碑があります。そのお寺の名は何ですか。

1 瑞泉寺
2 報恩寺
3 護国寺

問17 大正14(1925)年3月、望月義庵住職を導師として出家得度、「耕畝」という曹洞宗の僧侶になり、堂守をしました。「松風に明け暮れの鐘撞いて」の句のように、朝夕の鐘撞きが日課でした。そのお堂は次のうちどこですか。

1 味取観音堂
2 浅草観音堂
3 上野観音堂

問18 山頭火の現存する日記は、昭和5(1930)年9月9日からのものです。
9月14日人吉町の宮川屋で、芭蕉の「奥の細道」吉田兼好の「徒然草」にも匹敵する
序文を残しています。

   「私はまた旅に出た。――
   所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった、愚かな旅人として………………
   水は流れる、雲は動いて止まない、風がふけば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、
   鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け、
   旅のあけくれ、かれに触れこれに触れ、うつりゆく心の影をありのまゝに写そう、
   私の生涯の記録としてこの○○○を作る」○の中に入る言葉は何ですか。

1 一草記  
2 草木塔
3 行乞記

問19 「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」という前書きのある山頭火の句は何ですか。

1 うしろすがたのしくれてゆくか  
2 生死の中の雪ふりしきる  
3 分け入つても分け入つても青い山









いれものがない両手でうける 放哉
問20 山頭火は、昭和3(1928)年と昭和14(1939)年の2度、香川県の小豆島に渡り俳人の墓参りをしています。大正15年(1926)年4月7日小豆島の西光寺南郷庵で41歳の生涯をとじた俳人のお墓です。その人は誰ですか。

1 野村朱鱗洞  2 尾崎放哉
3 井上井月











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2012年10月28日日曜日

「第3回山頭火検定」の試験問題です。<その3>

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問11 山頭火と5つ違いの弟は母の死の直後、6歳で養子に出されます。種田家の破産後、養子先から縁をきられて、岩国の愛宕山中で縊死します。山頭火の悲しみは計り知れませんでした。「帰らんと心は矢竹にはやれども故郷は遠し肥後の山里」の辞世の歌を残した弟は、誰ですか。


1 五郎
2 二郎
3 太郎 

問12 大正7(1918)年10月31日、山頭火が「俳壇の啄木」と評した松山市生まれの天才自由律俳人がスペイン風邪で夭折しました。その人は誰ですか。
「山頭火と朱鱗洞」<藤岡照房>2012.8.22

1 野村朱鱗洞
2 尾崎放哉
3 河東碧梧桐 

問13 妻子を放置し、再起を期して上京し、妻の兄に「無責任さ」を責められて、離婚された山頭火はある出来事のために、元の妻のところへ帰らざるをえなくなりました。その出来事とは何ですか。

1 東京市職員辞職 
2 関東大震災発生  
3 神経衰弱発症

問14 「疲れて戻る夜の角のいつものポストよ」は、大正8(1919)年、山頭火36歳、文学への思いを捨てきれず上京しセメント試験場に勤務していた時の句です。大正10(1921)年には、東京市の職員になります。どこに採用されましたか。

1 江戸川浄水場
2 一ツ橋図書館  
3 教育委員会

問15 大正13(1924)年、山頭火はその後の人生を変える一大事件を起こしています。その事件とは何ですか。

1 熊本市公会堂前で進行中の電車の前に立ちはだかった。
2 熊本市の有名料亭で無銭飲食をした。
3 熊本市で政治活動をして、留置場にいれられた。
熊本公会堂の跡地近辺の風景


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「第3回山頭火検定」の試験問題です。<その2>

検定問題にチャレンジしてみませんか。


問6 山頭火は「自分は禅坊主になるのだから、嫁はもらわん」と言っていましたが、
26歳で結婚しました、その妻の名は何といいますか。

1 フサノ
2 ツルノ
3 サキノ

問7 翌年、長男が生まれました。彼は父・山頭火に給料の半分を送り続けたといわれています。長男の名は何といいますか。

1 健
2 猛
3 剛

問8 大学を中退し、防府へ帰郷していた山頭火が、明治39(1906)年、24歳で父と一緒に酒造業をはじめます。その場所はどこですか。

1 山口県防府市
2 山口県大道村
3 山口県小郡町

問9 「窓に迫る巨船あり河豚の宿」の句が、大正2(1913)年、30歳の時「層雲」に初入選します。この時の俳号はなんですか。山頭火の号は、その後用い始めます。

1 蜻蛉公
2 田螺公
3 椋鳥公

問10 山頭火が熊本で開業した店は、五高生(現・熊本大学生)の溜まり場にもなりま
した。今はその跡もなく、大手スーパーになっていますが、その店の名は何ですか。

1 萬屋
2 三八九
3 雅楽多

解答はここをクリックしてください。[解答]

2012年10月27日土曜日

「第3回山頭火検定」の試験問題です。(その1)

第3回山頭火検定合格者の受賞式を、11月10日(土)に一草庵で行います。
18人の合格者を山頭火さんに、報告させていただきます。

今後、山頭火検定にチャレンジされる方に、第3回の検定問題を紹介しておきます。

 <第3回山頭火検定試験問題>

解答用紙の正しい番号へ○印をつけてください。

問1 山頭火は「雨ふるふるさとははだしであるく」の句を詠んでいます。彼の生誕地はどこですか。


1 愛媛県松山市
2 熊本県熊本市
3 山口県防府市

問2 山頭火の誕生日はいつですか。

1 明治15(1882)年12月3日
2 明治17(1884)年6月16日
3 明治18(1985)年1月20日

問3 山頭火の本名は何といいますか。

1 種田正一
2 種田二郎
3 種田信一

問4 山頭火が9歳のとき、母の自殺に遭遇します。(満年齢表記。以下同じ)

 「私が自叙伝を書くならば、その冒頭の語句として、私一家の不幸は母の自殺から初まる――と書かねばならない」と日記に書き記しています。
母の名はなんですか。

1 ツル
2 フサ
3 シズ

問5 山頭火は、山口中学(現・山口高校)を卒業し、東京の大学で文学の勉強をしました。同期に童話作家の小川未明もいます。その大学はどこですか。


1 慶応義塾大学
2 早稲田大学
3 明治大学





 
解答はここをクリックしてください。[解答]

第3回山頭火検定問題<解答>

皆さんできましたか。正解は次のとおりです。

<問1>  正解 3 山口県防府市     
<問2>  正解 1 明治15(1882)年12月3日
<問3>  正解 1 種田正一
<問4>  正解 2 フサ
<問5>  正解 2 早稲田大学

<問6>  正解 3 サキノ
<問7>  正解 1 健
<問8>  正解 2 山口県大道村
<問9>  正解 2 田螺公
<問10> 正解 3 雅楽多

<問11> 正解 2 二郎
<問12> 正解 1 野村朱鱗洞

<問13> 正解 2 関東大震災発生 
<問14> 正解 2 一ツ橋図書館 
<問15> 正解 1 味取観音堂

<問16> 正解 2 報恩寺
<問17> 正解 1 味取観音堂
<問18> 正解 3 行乞記 
<問19> 正解 3 分け入つても分け入つても青い山
<問20> 正解 2 尾崎放哉

<問21> 正解 1 よい宿でどちらも山で前は酒屋で
<問22> 正解 2 其中庵
<問23> 正解 3 国森樹明
<問24> 正解 2 湯田温泉
<問25> 正解 2 中原中也

<問26> 正解 2 松山市
<問27> 正解 1 高橋一洵
<問28> 正解 1 ちくぜんや
<問29> 正解 3 伊藤大輔
<問30> 正解 2 大山澄太


<問31> 正解 1 石手寺

<問32> 正解 3 「草木塔」

<問33> 正解 3 井上井月
<問34> 正解 2 ここまで来しを水飲んで去る
<問35> 正解 2 ここまで来しを水飲んで去る

<問36> 正解 1 庚申庵
<問37> 正解 2 昭和15(1940)年10月11日
<問38> 正解 3 東京
<問39> 正解 1 花いばら、ここの土とならうよ

<問40> 正解 1 一羽来て啼かない鳥である

<問41> 正解 3 往生
<問42> 正解 1 焼かれて死ぬる蟲のにほひのかんばしく

<問43> 正解 1 うどん
<問44> 正解 2 柿の会 
<問45> 正解 3 愛媛県松山市一草庵
<問46> 正解 3 永平寺
<問47> 正解 3 咲いて一りんほんに一りん

<問48> 正解 2 宝厳寺

<問49> 正解 1 栗田樗堂
<問50> 正解 2 咳をしても一人

<問51> 正解 2 一つ
<問52> 正解 2 句碑
<問53> 正解 2 風
<問54> 正解 3 荷物
<問55> 正解 2 しぐれ

<問56> 正解 3 萩
<問57> 正解 3 南無阿弥陀仏
<問58> 正解 2 水
<問59> 正解 3 寒い
<問60> 正解 2 柿の葉

2012年10月22日月曜日

道元禅師の「身心脱落(しんじんだつらく)」と山頭火。

またまた恥をかいてしまいました。
山口県と愛媛県の曹洞宗青年会のグループ「山頭火を偲ぶ遍路の会(山頭火生誕130年記念)=山口県下関・高林寺主催」の御一行27名が、来庵(10月21日)。
松山八ケ寺の歩き遍路です。
浄瑠璃寺⇒八坂寺⇒西林寺⇒浄土寺⇒繁多寺⇒石手寺⇒<一草庵>⇒太山寺⇒円明寺

山頭火も種田耕畝という曹洞宗の僧侶なり。
曹洞宗機関誌「禅の風」平成15年10月の№27に特集山頭火~現代の漂白者~があったので、身の程も知らず、お坊さんたちに紹介したのです。

その中に、山頭火の言葉あり。それは山頭火自選句集「草木塔」 雑草風景の最後の言葉でした。

 風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。
私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである



文芸評論家・饗庭孝男
生存の思想と俳句
或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私であるが、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であることに間違ひはない。(昭和10年12月20日)

この道元禅師の禅語を”しんしんだつらく”と読んでしまった。
あとで、”しんじんだつらく”と読むことを教えていただいたのです。
身心脱落とは、道元禅師の用いている言葉で、身も心も一切の束縛からなくなることを意味し、
道元禅師は「身心脱落」の内容を「自己をわするる」なり、万法(=他)に塗りつぶされて、他一色になることだそうです。

続いて、山頭火の俳句を二つ紹介しました。

 やつぱり一人がよろしい雑草
 やつぱり一人はさみしい枯れ草

山頭火はひとりをさびしいと思い、自然と交わるとき、うれしいと感じるのです。
人間の持つ二重性を自覚し、巧みに使い分けているようです。修業する雲水として、ひとまわりも二まわりも大きい環境の中で、動物や草木と親しみ、交感し、生きるよろこびを知り、「身心脱落」とともに、自己再生を果たそうとしたのが、山頭火の道だというのです。

 最後に、永平寺三句を紹介。
 
 水音のたえずして御仏とあり
 てふてふひらひらいらかをこえた
 法堂(はっとう)あけはなつ明けはなれてゐる

新潟県鶴岡から、ホームレスのような乞食当然の姿の山頭火がやってきた。
永平寺の笛岡自照老師は、僧として山頭火を認め、宿坊で五カ日を過ごさせたのです。

今回、この内容を山頭火検定の問題に出題しました。

問46 昭和10(1935)年7月、乞食同然の姿で寺に辿り着いた山頭火を笛岡自照老師は、僧として認め、宿坊で5カ日を過ごさせました。

そこで次の3句を残しました。
「水音のたえずして御仏とあり」「てふてふひらひらいらかをこえた」「法堂あけはなつ明けはなたれている」 このお寺は、どこですか。

          1 中尊寺  
          2 宇治平等院  
          3 永平寺

今日は、一草庵が一瞬、お寺の本堂のように変身し、素晴らしい回向がはじまったのです。
修証義の読経……、そして各自それぞれ短冊に書かれた俳句を奉納するのです。


 <一草庵訪問記・画像=山頭火を偲ぶ曹洞宗青年会>

目を閉じると、山頭火さんの喜んでいる姿が、くっきりと浮かんできました。
  捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
なにもか捨てようとした山頭火でしたが、世の中から逃げたように思えるけれど俳句だけは、捨てなかった。
此の世に生まれた以上、人生のすべては苦であり、理想と現実のズレに苦しむ(釈迦の教え)。
俳句を通じて、山頭火は自分と向かい合って、人生の真理を求め続けたのです。
その俳句は、世界中の人たち読まれて、その心を捉えます。
そして彼の綴った日記は、赤裸々なやさしく書かれた仏教書のようではありませんか。

 昭和15年2月11日の松山日記は、懺悔文ではじまります。

  往昔所造諸惡業
  皆由無始貪嗔痴
  從身語意之所生
  一切我今皆懺悔

やはり山頭火は、だだの酒飲みではなかった。    
山頭火を偲ぶ遍路の会の皆さん、本当にありがとうございました。

※追加報告
 さる10月20日(土)に、第7回松山市青少年育成市民大会に参加して、
「一草庵夏の子どもまつり」の活動報告の展示をしました。夏の子どもまつりのスナップ写真です。

「一草庵夏の子どもまつり」活動報告フォト。
夏の子どもまつりにも参加してくれた
湯築小学校の音楽隊の演奏素晴らしかった。

2012年10月15日月曜日

山頭火一草忌と映画「山頭火」のこと

10月11日(木)は「一草忌」です。
山頭火終焉の地・松山の一草庵で山頭火73回忌の法要を行いましたので、ご報告します。
(参加者35名)
御幸寺、土屋住職が、読経、参加者で「般若心経」を唱えました。


御幸寺土屋住職による読経


山頭火さんに、琵琶「俳人山頭火」の奉納、そして「献句」を行いました。
愛媛朝日テレビさんが、取材し放映してくれました。

琵琶「俳人山頭火」を奉納する見立先生
山頭火の遺品・鉄鉢とキセル等の特別展示

NHK松山放送局の方々も、取材にきてましたので、山頭火・一草庵をテーマに
何か番組をつくってくれそうです。
NHK松山放送局の取材


映画「山頭火」制作プロデューサー山本末男さんが、打合せに松山へ来ましたので、近況を紹介しておきます。
監督は中山節夫さん、2005年「ヘレンケラーを知ってますか」で、山本さんと映画を制作しています。
ハンセン病と取扱った「あつい壁」「ブリキの勲章」などの作品があります。
横田与志さんによる脚本が出来上がってきたとのことでした。
横田さんの映画脚本は、『化粧師 KEWAISHI』(2002年)、『精霊流し』(2003年)、『火天の城』』(2009年)などあります。椎名桔平主演の「大正時代、女性に化粧を施す仕事<化粧師>の映画よかったですね。期待できそう…。

松山でも「映画・山頭火を応援する会」を立ち上げなければ、なりません。
近いうちに「映画製作協力券1000円=映画券」を一草庵でも、山頭火ファンに買ってもらおうと思っています。
11月下旬、松山で、監督を招いて映画記者会見を開催する予定になっています。