今週の山頭火句

今週の山頭火句 すわれば風がある秋の雑草  山頭火

2011年12月27日火曜日

探墓・伊予吉田3万石を訪ねて

山頭火と探墓
山頭火は、敬慕し心から話したい人に会いに行っている。
お墓を探して話しかけるのだった。
 井上井月であり、尾崎放哉であり、野村朱鱗洞だった。

残り少ない本年を回顧して、
琵琶謡「俳人山頭火」の作曲者・佐竹(田村)旭都さんへの報告とお礼をしておかなければと思い
26日午後、宇和島・吉田の臨済宗妙心寺派の海蔵寺へ向かった。
(佐竹旭都さんの命日は、平成3年12月26日、
 作詞者・大山澄太さんは平成6年9月26日が命日、墓参済み。)
午後3時吉田到着。
都さんの娘さん・渡辺萬里子さんご夫婦が、突然の訪問であったがやさしく丁寧に案内してくれた。
                 http://www.youtube.com/watch?v=F5JPI07khaU
佐竹家のお墓は、苔むした古い由緒のあるお墓だった。
琵琶コンサートの報告はしたのだが、山頭火の酒「一浴一杯」、琵琶コンサートのDVDを飾ろうと思っていたのにお墓に飾るのをすっかりと忘れてしまっていた。
いろいろと思い出ができたので、少し紹介させていただきます。

JR予讃線の線路を渡ると、すぐの処、山ふところに海蔵寺はあった。
山門をくぐったところには、「念ずれば花ひらく」の坂村真民さんの碑がある。
佐竹英一作・聖観音
吉田高校、三瓶高校で永く教職ととられていたからだと思った。
真民さんは、両校の校歌の作詞をしている。
萬里子さんが、お寺の中にある聖観音像を紹介してくれた。
久万の古岩屋の不動明王を彫った佐竹英一さんの作品だった。
家にあった作品をお寺に奉納、県展の審査員もされていたお父さんの作品だそうだ、まことに素晴らしい。

このお寺には、忘れられた人、村井保固(やすかた)のお墓があった。
忘れてはいけない人だということを教わった。
福沢諭吉に教えを受け森村財閥に入り、日本陶器会社(ノリタケ、大倉陶苑、東陶などの母胎の会社)の設立と発展に尽くした人。
慶応大学で同期に、犬養毅、尾崎行雄、毎日新聞を大きくした本山彦一がいる。日米貿易のパイオニアとなり、戦前に太平洋を90回も横断したという。アメリカ人のキャロライン夫人と国際結婚をして生涯添い遂げ、昭和11年83歳で亡くなっている。
事業で得た金を惜しげもなく郷里の吉田の教育事業に寄付。私財を投じて、村井幼稚園、吉田病院、吉田中学(現吉田高校)、図書館を設立、郷土の教育・福祉に貢献したそうだ。
海蔵寺
それ以外にも、いろいろな話を伺った。
大河ドラマ「坂の上の雲」も終わったが、吉田にも関わった人がいた。
秋山真之が亡くなったのは最後に世話をした旧友・山下亀三郎の別邸・対潮閣だった。
山下亀三郎は、吉田出身の山下汽船を創業した人、横浜には彼が寄贈した山下公園がある。
また、連合艦隊旗艦「三笠」の解体廃棄を救ったのは、吉田出身の芝染太郎さん。
水引地蔵
ジャパンタイムズの社長をし、「三笠を残せ」という記事を書き、「三笠」保存を米・英・仏・伊の了解を取り付け、世界的世論とした。財団法人三笠保存会が大正14年9月1日発足。大正15年、全長132メートル、幅23メートル排水量1万514トンの三笠は改装を終え、横須賀白浜海岸に固定された。
芝さんがいなければ、旗艦「三笠」の今の姿はなかったのだ。

吉田訪問の帰りに、以前に行ったことのある臨済宗修行道場の「大乗寺」立ち寄ってみたいと考えていた。
ご夫妻が車で連れて行ってくれ、素敵なガイドをしてくださった。
山門の右には格調高い「水引地蔵」さんがいた。干ばつに苦しむ村の田んぼに一夜にして水を引いて農民を救ったというお地蔵さん。

家にあった大乗寺住職・沢井進堂さんの掛軸を持参していた。
室号・宝林コト進堂住職が、京都の職人に作らせた表千家茶室と庭園の外観を拝見した。恐らく愛媛県下一の茶室庭園ではないだろうか。
大乗寺の歴代住職、足利紫山、河野宗寛、沢井進堂、それぞれ魅力のある禅僧のようです。
樅の木は残った=「伊達騒動」で吉田藩お預となった伊達兵部一族の墓、
東洋城の一番弟子俳人・岡田燕子のお墓へも案内してくれました。

伊達兵部一族の墓

名刹・大乗寺
脱線したような気もしますが、山頭火さんのお使いで、吉田へお礼の報告に行ったのです。
吉田の町は伊達藩の分家として作られた3万石の陣屋町、300年の昔が残る美しい町でした。
(来年2012年には、高速道路延長を記念して「えひめ南予いやし博」が開催されるそうだ。)

もう一つ今年中にやって置きたいことが残っていた。
俳誌「暁」に載った俳句
   雪迎えあなた恋うればすいっと飛ぶ  美世
の句を読んだエッセイに紹介されていた宮本輝の「約束の冬」を読んでしまうこと。
「空を飛ぶ蜘蛛を見たことがありますか?」
少年が手紙を渡して走り去ったところから、物語ははじまります。
そして、今こんな所を読んでいます。
「どうも日本の男どもってのは、ある年齢を経ると、源氏より平家のほうへ行くそうですね」
と桂二郎は翠英に言った。
「そうですはね。平家物語、徒然草、西行、奥の細道、山頭火……」

2011年12月22日木曜日

訪庵録

心癒される一草庵
 一草庵を訪れた人はみな、なぜか穏やかで豊かな心を取り戻せるようです。今風に言えば、一種の「パワースポット」かもしれません。偶然、そんな感想を持った方々の言葉を拾ってみました。

一草庵の隣にある護国神社と御幸寺山
山頭火もよく参拝しました

H23.6.1
今日、初めて一草庵にきました。ほんわかしていてとても落ち着く場所ですね。また来たいと思います。 松山市 松久様

2011.3.24
地元から  この地に足をふみ入れるとなぜか心がおちつきます。なぜか。

2011年4月1日
初めて愛媛に来ました。一草庵はとても静かで心が落ち着きます。とても良いところです。
                                         千葉県 亜希子様

「濁れる水の流れつつ澄む」

2011年12月19日月曜日

山頭火倶楽部の5大ニュースは!?

世界10大ニュースをアメリカのAP通信が発表しました。
今年の2位に、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故。

1位は5月の国際テロ組織「アルカイダ」のオサマ・ビンラディン容疑者が殺害されたニュースでした。
機関紙「一草庵だより」では、今年の山頭火倶楽部5大ニュースをとりまとめ中です。
まだ決まっていませんが、次のようになりそうです。

 まぼろしの琵琶「俳人山頭火」再現披露

 一草庵で初の「子供まつり」開く
 
 山頭火倶楽部の公式WEBサイト開設
 
 シルバー人材センターと共催の「俳句講座」開く
 
 「俳句一草庵」と「俳句ポスト」もりあがる
 
 
今日は、「まぼろしの琵琶・俳人山頭火」のタイジェクト版映像を提供します。
わざわざ帰りぎわに、”ほんとうに好かったですよ。”と見知らぬ何人かの人が声を掛けてくれた時は、喜びが込み上げてきました。
それでは、ご鑑賞ください。 (好評発売中)
  (1)まぼろしの琵琶「俳人山頭火」 (ダイジェクト判)
    http://www.youtube.com/watch?v=WGe-XFN8HQ0
筑前琵琶・見立旭庸先生
                                    
                                
  (2)薩摩琵琶「敦盛」
     来年のNHK大河ドラマ「平清盛」に因んで、「一ノ谷の戦い」を聴いてみてください。
              人間国宝「石田不識」作の琵琶で奏でます。
     http://www.youtube.com/watch?v=XJoRo1r_CuY
                       
薩摩琵琶・明庭豊水先生
  

2011年12月16日金曜日

座談会「俳句一草庵」をしました。

12月15日は、山頭火一草庵への入庵日。
「俳句一草庵」の選者の先生方に集まっていただき、「俳句座談会」をしました。
これは、「一草庵だより」新年号の企画、その内容は20号に掲載されます。

その前に一言、「一草庵の名の由来」について。
「一草庵」という名前は、いつ名付けたのかというお話がありました。
昭和15年の「層雲」3月号の高橋一洵氏の話によると、「庵のそばには四国で三本しかないという大きな梛(なぎ)の樹が茂っていたので、「梛の庵」というにふさわしいと思っていたようであると。
そして、句会について、昭和15年1月6日第一回の「柿の会」例会を「なぎの庵」で開催したと書き加えています。
山頭火自身は、山口県の湯田温泉の風来居から、やってきたので、入庵日12月15日の日記には、新”風来居の記”と書いています。
 昭和十五年二月十四日の山頭火日記。
  「九時ごろ出かける、古町まで歩いて、そこから電車で高浜へ、澄太君を迎へるために、待つ間、しみじみ海を眺めた。…」
  道後の八重垣旅館に泊まっている大山澄太を一洵、政一と一緒に訪ねます。
しっくりいかない庵の名前の話になります。
「一草一人一日一合日々是好日」と澄太は書をかき、一草庵と名付けてはどうかと提案。
山頭火も「老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る」とその名を気に入った。

そして、記録に残る資料としては、
2月15日、山部木郎へ
春がそこまで窓のさくら草
 是非、松山の一草庵に山頭火を訪ね下さい、お大切に」と葉書を出しています。
 
海南新聞(現・愛媛新聞)には、
「層雲派松山支部『柿の会』第二回句会を二月十八日御幸一草庵なる山頭火師宅に開催した。…」の記録が残っています。
 以上のことにより、一草庵の名は、昭和15年2月14日に名付けられたと推定されます。
(「其中庵」の名前は、嬉野温泉、川棚温泉で庵を見つけようとした時、すでに庵の名前は決めていたようです。)

それでは、今までに選ばれた俳句大賞を紹介してみましょう。

 第1回俳句一草庵大賞(2009.11.29)
     カラコロと草庵に行く冬日和     大山光子
 
 第2回俳句一草庵大賞(2010.4.29)
     家よりの一歩を春の旅となす    村上邦子
 
 第3回俳句一草庵大賞(2010.11.23)
     空がまぶしい大銀杏         東 隆美
 
 第4回俳句一草庵大賞(2011.4.29)
     野良猫が春の扉を開けて来る   安 悦子
 
 第5回俳句一草庵大賞(2011.11.23)
     檄が飛ぶ銀杏並木の校庭に    山下清治
 
 第1回山頭火俳句ポスト大賞(投句期間 2009.11.29~2010.2.28)
     山頭火の眼鏡まんまる冬ぬくし  小原恵美子
 
 第2回山頭火俳句ポスト大賞(投句期間 2010.3.1~6.30)
     玄関に筍ごろりあるじ留守     小山安義
 
 第3回山頭火俳句ポスト大賞(投句期間 2010.7.1~10.31)
     山頭火なして酒飲む前に生柿食べなかったか   田中清子
 
 第4回山頭火俳句ポスト大賞(投句期間 2010.11.1~2011.2,28)
     三寒四温平和通一丁目       浅海好美

 第5回山頭火俳句ポスト大賞(投句期間 2011.3.1~6.30)
     奔放に脱ぎし庵の今年竹      郷田喜久江

  第6回山頭火俳句ポスト大賞(投句期間 2011.7.1~10.31)
     泥酔も母の位牌もしぐれおり    水澤 弘之
 
こんなお話が記憶に残っています。
※山頭火の俳句は、七、七音のバリエーションの句が多い。
  うしろすがたの しぐれてゆくか
  こころすなほに 御飯がふいた のように、
  山頭火の俳句をまねするようなまがい物でも困る。
※山頭火については、自由律俳句が好きという人より、その生き方に魅力を感じる人のほうが多いように思える。
※山頭火の俳句は、自由律といいながら、短歌的な表現をした境涯俳句のように思える。
※私にとっての俳句は、自己表現できる唯一のものなので、継続的に参加していきたい。
   継続していくことで、俳句のまこと、新しい俳句が生まれてくる。
※伯方高校の阿部君が作った入選句「原罪というべきか少年と薔薇は」が印象的だった。
 自分と違った発見がある、新しい発見が楽しみである。

2011年12月14日水曜日

阿波の歴史小説「捨ててこそ-山頭火遍路紀行-」  小川公三さんより届く。

明日、12月15日は、「山頭火、一草庵入庵日」だ。
一草庵が一般公開され、山頭火の遺品・鉄鉢、キセルが陳列されます。
ご来庵あれ!

今日、徳島の小川さんから、阿波の歴史小説「捨ててこそ-山頭火遍路紀行」の本が寄贈された。
一草庵図書として、大切に保存します。

なかなか読み応えがあったので、紹介しておきます。
よく勉強されています。

   秋晴れひよいと四国へ渡つて来た  
 漂泊の自由律俳人種田山頭火(本名・正一)は、気軽に四国を訪れたと、冒頭の句を遍路日記に
 綴っているが、本当はそうではない。酒のせいで心臓が弱っているので、あと一年余りの命だか
 ら、したいことをして好きなように生きなさいと、広島の医師から宣告されていた。酒の業である。
  前に巡った四国巡礼は、母と弟の菩提を弔うためだったが、今回は自らの死に場所を求めての
 旅である。あの芭蕉や西行がそうであったように、日々を旅の梄かとし、旅に死ぬことを本望とし
 た。いわば捨身懸命の旅だった。
 で、始まる。
来松70周年記念・松山高浜の山頭火句碑
 
 実は、山頭火の日記は、2冊行方不明になっている。
 昭和14年9月27日~10月31日(四国遍路日記)
 昭和14年12月17日~昭和15年2月10日(松山日記其一)

 よって、山頭火の四国遍路参詣の道は、山頭火の書簡及び友人の記録に頼るしかない。

 この物語は、10月29日3番札所・金泉寺の木賃遍路宿の場面がクライマックスのようだ。
 NKHドラマ「何でこんまに淋しい風ふく」のフランキー堺のような山頭火を想像しながら読む。

 -わしもこの頃、いっぱしの世間師になってきたなあー
 飴売り夫婦に頼まれて、息子へのハガキを書いてやる。
 お礼の護摩水(酒)を頂く。
 夜中に目を覚ます。
 あの母の白い足。空中に浮かんだ二本の白い足はもがくようにばたついている。

 「やめろ、なにをする!」
 山頭火は、娘遍路の首に掛かった腰紐を解いた。
 そして、山頭火は郵便為替で届いた3円を娘に渡す。
 山頭火は、その夜、一晩中、娘を抱いて温めてやった。
 翌朝、山頭火は娘遍路に鉄鉢を与えた。娘の名はノブといい、松山の道後温泉近くに住むという。
 袈裟は、飴売りの男にやる。

 何かが吹っ切れた、晴れ晴れした山頭火の顔つきであった、として
    わがいのちをはるもよろし  山頭火 
  山頭火、昭和14年11月4日に詠んだ俳句を紹介している。

 山頭火は、松山で高橋一洵や藤岡政一の世話になり、一草庵に定住した。
 一草庵では、たびたび「柿の会」が句会を開いた。
 高浜虚子の定型俳句『ほトトギス』に抗し、山頭火は自由律俳句の隆盛に努めた。

 ノブは新聞で、自分を助けてくれた坊さんが、山頭火であることを知って、たびたび
 一草庵を訪れた。野菜やお菜を届け、洗濯物などを持ち帰った。
 「わたしは、ノブさんに教えられた。捨てても捨てても、捨て切れないものがある。
 わたしにとって、それは命ではない。句なのじゃ。俳句なのじゃ。」と山頭火はいう。


 一部、抜粋して紹介してみました。本が読みたくなったことでしょう。
 「捨ててこそ-山頭火遍路紀行-」は、「大正を生きた人々」13編の短編小説の一つです。
 詳細は、
 「阿波の歴史を小説にする会(林啓介)」088-689-1253へ。

2011年12月9日金曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その12)

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問56 ずんぶり(   )のなかの顔と顔笑ふ


アメリカからヘロン久保田さん、山頭火句碑と。


 1 風呂  2 湯水  3 温泉(ゆ)











椿神社の山頭火玉垣句碑

 
問57 (   )がそれからそれへ酒のこぼれて


1 さびしさ  2 おもひで  3 かなしさ






問58 もりもりもりあがる(  )へあゆむ


 1 夢   2 空    3 雲

東京から池田澄子先生、山頭火句碑を。
 問59 生死の中の(  )ふりしきる
 1 みぞれ 2 雨    3 雪

問60 うまれた家はあとかたもない(  )
 1 あさがほ 2 ほうたる 3 葛の花

解答はここをクリックしてください。解答

2011年12月8日木曜日

[第2回山頭火検定」の試験問題(その11)

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問51 俳句の問題、(   )の中にはいる言葉はどれでしょう。(以下同問)

味取観音堂参道の句碑
昭和47年三十三回忌建立
(唯一の生前句碑は、宗像市「隣船寺にあり)
   (   )はみな枝垂れて南無観世音

    1 楠    2 梛   3 松


問52 ひよいと(   )へ晴れきつてゐる


    1 松山   2 四国  3 伊予



問53 笠へぽつとり(    )だった


    1 椿    2 霰   3 蛙



問54 だまつて今日の(   )穿く


    1 草鞋  2 ぞをり   3 下駄


椿神社・玉垣句碑


問55 空へ(   )のなやみなし


  1 若葉   2 若竹   3 若草

解答はここをクリックしてください。解答

「まぼろしの琵琶・俳人山頭火」の紹介。

山頭火墨絵の幟
俳人山頭火の一生を琵琶で堪能できるDVDの紹介をさせていただきます。


二年前からスタートした「俳人山頭火」復活物語が、最後の仕上げ「まぼろしの琵琶・俳人山頭火」DVDとして完成しました。
それでは、十月十日開催の「琵琶俳人山頭火再現コンサート」の記録映画を紹介してみましょう。


一草庵の柿の木に吊り下げられた、茂本ヒデキチさん描く「山頭火墨絵」の幟の画面でスタートします。
まずは、琵琶の音色が観客を幽玄の世界へと導きます。
西郷隆盛の悲運の最期を伝える筑前琵琶「西郷隆盛」、続いて無冠の太夫敦盛の最期を語る薩摩琵琶「敦盛」。
そして山頭火の一生を奏でる琵琶曲が会場に響き渡ります。
「俳人山頭火」の琵琶は、波瀾万丈の生き様を綴り、コロリと大往生を遂げる、その名はゆかし山頭火物語です。
観客は琵琶の音に引き込まれ、山頭火と共に放浪の旅に出てしまうのです。


突如、どこからともなく、山頭火さんと大山澄太さん、そして琵琶作曲者・田村旭都さんが扮装して登場。
ほっとする一コマです。そして、ラストの場面へと進みます。
予期せぬ大山澄太さんの愛娘・久仁子さんが、三重県の伊勢から来てくれていました。
その挨拶に涙しながら、幕は降ります。


十一月三日、子規記念博物館で「まぼろしの琵琶・俳人山頭火」完成記念映写会を開催。
希望者もありましたので販売を開始します。
大阪から、また熊本の筑前琵琶熊本旭会会長の小島旭寶先生からも是非勉強したいと申込がありました。
小島先生、熊本の皆様に「俳人山頭火」を琵琶の曲にのせて演奏してくださいね。

今回のイベントではもう一つ記念DVDを作成。
内容は、澄太先生九十一歳、平成元年五月京都での講演録「俳禅一味の山頭火」です。
(大山正風さま提供)
恐らく大山澄太先生、最後の講演でしょう、涙ながらに山頭火さんを語っています。

佐竹(田村)旭都さんの練習時の琵琶演奏テープが残っていましたので、写真をバックに再現収録しています。

〈頒布価格〉
「まぼろしの琵琶・俳人山頭火」¥800
「大山澄太先生講演録、琵琶俳人山頭火」¥500
2枚セット価格  ¥1000 とさせていただきました。
<販売所は、一草庵と子規記念博物館です。>

連絡先 〒799-2651
愛媛県松山市堀江町甲1615-3  
NPO法人まつやま山頭火倶楽部
℡  090-6882-0004
Fax  089-978-5959

紹介だけでは、琵琶の曲のイメージが
つかめないようですので、
田村(佐竹)旭都さん、演奏する「筑前琵琶・俳人山頭火」を
You tube に限定で載せていただきました、ご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=F5JPI07khaU

<補足>
 映像の中の山頭火の俳句を修正しておきます。

 しぐれて柿の葉のいよいようつくし ⇒ しぐれて柿の葉のいよいようつくしく

<お知らせ・追伸>
NHKさんからご連絡あり。
教育テレビ「にほんごであそぼ」で、「山頭火さんの詩」が朗読されます。
12月8日(木) 朝7:30~7:40 夜 17:15~17:25
再放送 12月22日(木) 朝7:30~7:40 夜 17:15~17:25
是非、ご覧ください。

2011年12月7日水曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その10)

検定問題にチャレンジしてみませんか。


問46 死後1年、昭和16年(1941)に建立された「鉄鉢の中へも霰」の句碑は、どこにありますか。


1 山口県防府市山頭火の小路 
2 福岡県遠賀郡芦屋町  
3 愛媛県松山市御幸町一草庵


問47 「てふてふひらひらいらかをこえた」と山頭火が詠んだお寺は、どこですか。

1 中尊寺  
2 宇治平等院  
3 永平寺















問48 山頭火は、ラフカディオ・ハーンが「怪談」で世界に紹介した十六日桜(孝子桜)の龍穏寺を訪ねて俳句を詠んでいます。その句はどれですか


1 すなほに咲いて白い花なり    
2 さくらさくらさくさくらちるさくら 
3 咲いて一りんほんに一りん

龍穏寺、銅版に刻まれた山頭火の句


 
 








問49 山頭火が「をなごまちのどかなつきあたりは山門」と詠んだお寺はどこですか。


1 石手寺
2 宝厳寺
3 太山寺















問50 次の言葉は「草木塔」山行水行の冒頭にある山頭火の詞です。
(   )の中にはいる言葉は下記の3つのうちのどれですか。

      山あれば山を観る
      (        )
      春夏秋冬 
      あしたもよろし
        ゆふべもよろし

大山澄太さん書く

1 月出れば月を仰ぐ
2 花咲けば花を愛す
3 雨の日は雨を聴く
解答はここをクリックしてください。解答


[第2回山頭火検定」の試験問題(その9)

山頭火句(八木三春・書)
検定問題にチャレンジしてみてください。

問41 熊本にある観音堂での山林独住に耐えかねて、一笠一鉢の行乞流転の旅に出ましたが、そのとき作った句はどれですか。



1 けふも托鉢ここかしこも花ざかり
2 分け入つても分け入つても青い山
3 まつたく雲がない笠をぬぎ

問42 山口県川棚温泉で結庵したい心を句に詠んでいます。次のどの句ですか。

1 花いばら、ここの土とならうよ
2 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
3 はだかで話がはづみます

問43 山頭火の絶筆三句のうち一句を、次の句から選んでください。

1 焼かれて死ぬる蟲のにほひのかんばしく 
2 もりもり盛りあがる雲へあゆむ 
3 ほろほろ酔うて木の葉ふる

問44 「(  )供へて、母よ、わたくしもいただきまする」と亡き母の句を詠んでいます。供えたものは何ですか。

1 うどん  
2 そば  
3 トマト

問45 「ふるさとは(  )がうまいふるさとにゐる」山頭火は俳句でふるさとの食べ物を懐かしんでいました。その食べ物はなんですか。

1 豆腐  
2 佃煮  
3 ちしゃもみ
妹シヅの嫁ぎ先・町田家近くの公民館前の句碑

解答はここをクリックしてください。解答

2011年12月6日火曜日

訪庵録

一草庵の庭にある資料展示スペースの隅に置いてあります。訪れた人たちが、山頭火との出会いや旅の思い出として、様々に綴ってくれます。このままここだけに置いておくことを残念に思っていました。少しでも多くの人に見てもらいたい、そんな気持ちで、ほんの一部ですが投稿します。また、一草庵にお出かけのときは、ぜひ、あなたの思いを書いてみてください。



一草庵訪庵録より

 「やっぱり皆同じ人生なんてつまんないよね。オリジナルな人生をMakeするぞ!! H23.3.23」

※山頭火さん自身はどう思って過ごしたか分からないけど、やっぱりオリジナルなスゴイ人生です。真剣に自分の人生に向きあうことは、難しくて、そして一見ダサいようでも本当はかっこいいですね。一草庵で山頭火の人生に触れるだけで、何か勇気が湧いてきます。


「平成廿三年三月三日


 山頭火の句を知り、四十年経ちました。お遍路の途中、寄らせていただきました。一草庵の中に入りお線香を手向けたかったです。  さいたま市 矢島」


※入っていただけなくてとても残念でした。平成21年4月から、土日祝日は朝から夕方まで(季節によって時刻は少しずつ違います。詳しくはブログトップページでご確認ください。)庵を開放しています。また、ぜひお出でください。一草庵案内人一同お待ちしています。



「草庵にかまきりが

      待ってくれた   11月3日  石見国 康一 」

※「出会い
カマキリがいました! 花の下で食事中でした。

 

[第2回山頭火検定」の試験問題(その8)

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問36 「解脱院山頭耕畝上座」という法名の種田家の墓は、熊本にありますが、兼崎地橙
安国寺・種田家の墓
孫の書で刻まれた「俳人種田山頭火之墓」があるお寺は何というお寺ですか。         



1 熊本・安国寺   
2 防府・護国寺   
3 松山・龍穏寺
俳人種田山頭火の墓


問37 松山には江戸・明治・昭和の俳人ゆかりの庵が三つあり、「三庵めぐりコース」があります。その一つは子規が「伊予一番の俳人」と賛え、小林一茶も二度訪ねて来た栗田樗堂が建てました。庵の名前は何ですか。

1 庚申庵
2 愚陀仏庵
3 一草庵

フジの花咲けば、綺麗ですよ。

問38 山頭火の命日はいつですか。


1 昭和15(1940)年10月1日  
2 昭和15(1940)年10月11日   
3 昭和15(1940)年12月3日


問39 山頭火の業績の偉大さは、克明な日記に因るとも言われます。しかしある時期の日記を焼き捨て、「焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか」の俳句を詠んでいます。いま残っている日記はいつからのものですか。


1 大正12(1923)年9月1日
2 大正15(1926)年4月10日
3 昭和5(1930)年9月9日

問40 山頭火作でない句は、どれですか。


1 鴉啼いてわたしも一人 
2 咳をしても一人 
3 おとはしぐれか
小豆島・西光寺の句碑

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2011年12月5日月曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その7)

検定問題にチャレンジしてみませんか。


問31 山頭火の終の住処は「一草庵」と名付けられました。
その命名者は誰ですか。


1 荻原井泉水
2 大山澄太
3 種田山頭火
問32 昭和14(1939)年10月、松山に来た山頭火は、その日すぐ敬愛する野村朱鱗洞のお墓を国宝の二王門のあるお寺で探しますが、所在不明で落胆します。そのお寺はどこですか。

1 石手寺
2 太山寺
3 御幸寺





問33 山頭火は折本句集を7冊刊行しています。その中から701句を選び、松山で一代自選句集を刊行しています。その句集の名は何ですか。

1 「草木塔」  
2 「柿の葉」  
3 「一草記」  






問34 昭和14年3月から約2ケ月間、山頭火は東行の旅をしました。その時念願だったある俳人の墓参を果たしました。その俳人とは誰ですか。


1 松尾芭蕉
2 小林一茶
3 井上井月

問35 山頭火は東行の旅を三度しています。東北の平泉で詠んだ俳句は、次のどれですか。


1 水音のたえずして御仏とあり
2 ここまで来しを水飲んで去る
3 春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏


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2011年12月4日日曜日

「第2回山頭火検定」の試験問題(その6)

検定問題にチャレンジしてみませんか。

問26 山頭火は、昭和13(1938)年、小郡の庵から湯田温泉に移り住みました。そこである有名な詩人の弟呉郎や家族と親しく付き合いました。その詩人とは誰ですか。


1 金子みすず  
2 中原中也  
3 佐藤春夫

問27 山頭火は北海道を除く、本州・四国・九州の日本全土を歩き、1万句以上の俳句を残しました。行乞行脚の末“おちついて死ねさうな草枯るる”と詠んで、自ら終焉の地と定めた都市はどこですか。

1 熊本市  
2 松山市  
3 防府市




問28 山頭火が松山へ行くときに、大山澄太が紹介した人物は誰ですか。


1 高橋一洵  
2 久保白船   
3 村瀬汀火骨

問29 松山で庵が見つかるまで、山頭火が泊っていた道後の宿はどこですか。

1 ちくぜんや   
2 ふなや
3 きどや

問30 山頭火が住むこととなった庵は、宇和島出身の著名な映画監督が妹のために建てた家でした。その映画監督は誰ですか。


1 森一生   
2 伊丹万作  
3 伊藤大輔


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