今週の山頭火句

今週の山頭火句 萩の一枝に日がある  山頭火

2013年1月17日木曜日

台湾を愛した日本人「八田與一」

台湾の花城可裕先生から、台湾俳句「ゆうかりぷたす」第3号が届いた。
台湾句集「ゆうかりぷたす」
台湾での日本語俳句大会の俳句が、沢山紹介されていた。

 雲の峰馬八方に戯れる       李昱嫻
 風薫る明け方黒い田舎道     翁偉舜
 廃線の途切れるところ雲の峰   劉奕辰
 雲の峰背にして坂を駆け下りる  廬小依 
 春の朝真白き服で街を行く     林君維
 春雨やマリアの涙音もなく     昝佳雯


それよりも私は、八田與一技師七十周年の記事が目にとまってしまいました。
「台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯」という本を知っていたからです。
その本は、松山の出版社「創風社」から出版されています。
著者は、古川勝三さん。宇和島出身の先生で、高浜中学の校長先生もされていた。





友達に本を借りて、徹夜して読んだ、思わず涙しました。

八田與一(はった・よいち)。
八田與一、石川県金沢の生まれ、四高から、東京帝大土木工学科へ。

同期には、河合良成や正力松太郎がいた。
土木工事の新天地を求めて・台湾に自分を生かす道を選ぶ。
台湾は、サツマイモの形をした九州とほぼ同じ面積の島。
その台湾の南部 高雄地区・台南市の開発に関わる。

およそ100万人の嘉南平原の農業従事者の生活に潤いを与える・東洋一のダム烏山頭(うざんとう)ダムを設計し、工事を完成させた。

その昔、高雄の上、台南にある嘉南地区は、作物の水だけでなく、飲料水にも苦しんでいた。

その10万ヘクタールの台地は、乾燥して水を欲しがり、そこに住む農民も飲料水に事欠いていた。與一は、ダムの適地を求めて、調査をする。

ダムの長さは、千メートル、高さ五十メートル。
灌漑する面積は、東京23区の2.5倍、香川県の面積に匹敵する。
烏山頭にダムをつくり、総貯水量1億6千6百八十万トンを貯水。
給排水路の総延長は、一万6千キロ、万里の長城の6倍の長さ、地球を半周する距離である。
このダムは、発電用のダムでなく、農民のための灌漑用のダムだった。
若干34歳の若き技師が、今日の金額で5千億ともいわれる巨大工事をやってのける。

工事は、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年9の10年の歳月をかけて完成する。

完成した、烏山頭貯水池に水が蓄えられた見事な一大人造湖・珊瑚譚。
作者は、烏山頭水庫とよなれている日本人が作ったコンクリートの一片も見えない人造の湖、珊瑚譚(さんごたん)が、今まで見たどの湖もより美しかったという。


様ような農作物ができるようになり、不毛の地・台湾最大の平原・嘉南平原は、「台湾最大の穀倉地帯」へと生まれ変わった。
「神の恵みだ。神の水だ。…」と農民は歓喜の声を上げる。
地元の人々は、感謝の気持ちを込めて、八田與一の銅像を造り、烏山頭ダムのほとりに建てる。

その銅像は、高い台座の上に立っているものでなく、
作業ズボンに作業靴を履いて、右手は二本の指で、頭髪をひねり、静かに珊瑚譚を見下ろしている。
銅像の後ろには、昭和21年に作られた御影石の八田夫妻の墓が建つ。
日本が戦争に負けた翌年のことである。
初代台湾総督・樺山資紀、児玉源太郎、後藤新平の像は、ことごとく破壊されるのだが…。
そんな日本色が一掃される時に、八田夫妻の墓は建てられた。
戦争は、昭和20年8月15日、日本の敗戦で幕を閉じる。
地元の人たちは、銅が高く売れている時に、盗まれたり、傷つけられないように、與一の銅像を守り続けた。そして與一の銅像は、戦前に作られた台湾に残る唯一の日本人の銅像となった。

そして、毎年、八田與一の「飲水思源」の墓前祭が行われている。
<詩経にある「飲水思源」とは、水を飲むときには、井戸を掘った人のことを思い感謝して飲めという意味らしい。>
 昨年2012年5月8日には、八田與一技師没後70周年の式典が行われた。
(没後70年として、台湾の中華郵政は、與一の記念葉書や切手を作成発行している。)
写真「台湾を愛した日本人」より
毎年欠かさず、この墓前祭は行われているという。

 台湾歌壇の八田與一さんを偲ぶ短歌が本に紹介されていた。
 
八田氏の銅像と共に見はるかす珊瑚譚美しく曇れる朝も      黄教子
八田技師は神と祈られ烏山頭にダムの清流永久に流るる     荘淑貞
台湾の農民の父と敬はるる八田氏は銅像に名を残しゐて      顔雲鴻
八田ダムを世界遺産に登録せんとユネスコへ名を掲げる台湾   蔡西川    

與一は、よく「他利即自利」といったそうです。
瀬戸内寂聴さんも、よく言っている「忘己利他」(もうこりた)のことだ。
「自分のことは忘れ、ひとのために生きる」・・・
作者は、台湾にいた時、「あたたは日本人だから、日本精神を持っていますよね」と聞かれた。
聞き返すと、
『嘘をつかない』『不正なお金は受け取らない』「失敗をしても他人のせいにしない』『与えられた仕事に最善を尽くす』の四っつ。

日本は良い教育をしてくれました。今日の台湾の発展は、この日本精神のおかげですよ」と語られ
返す言葉を失ったそうだ。
 
 八田與一  1886年(明治19年)~1942年(昭和17年)
 種田山頭火 1882年(明治15年)~1940年(昭和15年)

與一さん。
戦争にも行かず、仕事もしなかった山頭火より、尊敬できる人に違いない。

しかしまた、山頭火の俳句は、底辺で苦しむ人たちの心の支えになっているのがいい。

<補足>
與一の親友に、英秀璻(藤秀璻)がいたという、東大を卒業後、広島文理大学講師から広島大学名誉教授となる、晩年広島の徳応寺の住職となる、また歌人でもある。
 山頭火を世に出した大山澄太氏とも深い親交があったので、山頭火も紹介されているかも知れない。

<追加>
 大成建設・製作のDVD「民衆のために生きた土木技術者たち」をこと。
そのDVDに登場するのが、土木技師の青山士(あきら)、宮本武之輔、八田與一

「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」の本の中にも、少し紹介されている。
それは、東京帝大での先生、広井勇(高知県佐川町出身)の教え子たちだった。

今日、図書館で「宮本武之輔」の顕彰碑の記事をみた。
彼の出身地、松山は高浜沖にある興居島(ごごしま)にその碑はある。
(知らない人が多いので、松山の郷土の偉人として紹介させていただきます。)
貧しい家に育ったが、卒業の時、東大で銀時計を貰う。
パナマ運河を開発した参加した青山士(あきら)の指導を受ける。

縁に結ばれているようなので、
 宮本武之輔 のことを紹介しておきます。
利根川、信濃川の治水工事に貢献。
企画院次長。日本土木学会を立ち上げる。

【宮本武之輔】<森田実のホームページより>
 かつて信濃川は洪水氾濫が多く、越後平野の農民は「子女を売る」ほどの苦しみにあえいでいた。江戸時代から分水計画が立てられたが、それは明治29年の未曾有の大洪水を契機として、明治42年内務省の直轄工事として着手された。分水路は大正12年に完成し、農民の200年にわたる悲願が達成された。

 ところが昭和2年、流量を担う自在堰の陥没事故が発生し、越後平野が干上がった。そこで若きエース宮本武之輔が新可動堰の建設に当たることになった。

 彼は小学生の頃父親が事業に失敗し、全財産を失って一家離散した。彼は中学に進学できず、瀬戸内航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。この悲運の体験が彼を終生「弱者の味方」に立たせることになった。昭和3年1月、新しい可動堰の建設が開始され、工事が終わりに近づいた昭和5年の7月末、猛烈な集中豪雨に襲われた。氾濫の危機が迫り、宮本は村人を守るか建設現場を守るかの苦しい選択を迫られた。彼は村人を守るために仮締め切りを切れ!と命じた。完成間近の建設現場は惨憺たる有様となった。こうした苦難を経て新しい可動堰は昭和6年に竣工した。以来、信濃川は2度と牙をむくことなく、越後平野は日本の代表的な米作り地帯へと生まれ変わり、農民たちは苦しみから救われた。

<再追加>

 八田與一の座右の銘は、「他利即自利」。
 「百年ダムを造った男 土木技師八田與一の生涯」 著・斎藤充功 も読んでみました。

 台北には、いまも台湾総督は解体されずに、残っているそうだ。本に載っていた李登輝総統の言葉を、紹介しておきます。

 「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くの方はご存じないでしょうが、嘉南大圳を大正9年から10年間かけて造り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。台湾南部の嘉義から台南までに広がる嘉南平野に素晴らしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊かにした人です。
 今、その貯水池は、珊瑚譚と呼ばれ、湖畔に八田夫妻の墓があります。八田技師のブロンズ像も置かれています。」

 また、次のような台湾の官田小学校の教師の言葉がありました。
「日本人にあまり知られていない八田技師に関心をもつには大変よいことだと思います。それと八田技師は政治とはなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけのダムを造った人物です。日本人はもっと関心をもつべきですね」
 

2013年1月10日木曜日

鈴をふりふりお四国の土になるべく

一草庵を訪れた人が、山頭火の写真をみて
スケッチした鉛筆画です。
鈴をふりふりお四国の土になるべく  山頭火

こんな句を詠んで
山頭火は、四国遍路の旅をしています。
昭和2、3年の遍路、そして最後の旅となる昭和14年の46日間の遍路巡拝です。

一草庵での日々の暮らしでも、お遍路さんを見ると、
飛んで行って、今日の自分の食べ物まで手渡していたようです。

一草庵の訪庵録が、一杯になったので、新しいノートに差し替えました。一生懸命読ませていただきました。少し紹介させていただきます。

<訪庵された多くの人は、一草庵は、静かで、何故が心が落ち着きます。
トイレがきれいです。と書いていました。>

今回は、お遍路さんのメモを拾ってみました。

☆山頭火の句を知り、40年経ちました。
 お遍路の途中寄らせていただきました。一草庵に入りお線香を手向けたかったのです。

          (2011.3.3 さいたま市 矢島)




☆「分け入つても分け入つても青い山」
 四国八十八ケ所、歩き遍路、4回目のお参り。
 一草庵をめざしてやって来ました。
 反省あることしきりの人生ですが、又楽しい。
                     (2011.5.24 神戸市 西脇朋子)

訪庵録の画像①

☆昨日の雨が嘘のように晴れ、晩秋のさわやかな中を歩いて遍路しています。
 今まで何度も遍路道を歩きながら、立ち寄れませんでしたが、思いきって今回訪ねました。
 とてもよかったです、合掌。   (2011.11.20  山口 児島)


☆遍路のたびに、来ています。また、いつか。
 ひたすらに歩くへんろの幸せよ。            (2011.12.26 正木恭子)

☆うぐいすに 背中おされて へんろ道         (2012.4.12  おほ)

訪庵録の画像②

☆旧の一草庵にも訪庵録を置いておりました。数十年前立ち寄った時、北海道の御夫婦のメモを
目にして、地元に生まれながら、こんなにいい所があるのかしら?と認識しました。
「結婚し、山頭火のふるさとを訪ねる為に、コツコツ貯めたお金で、やっと30年ぶりに念願を達成とのこと。」読んでいると、不思議に涙す。           (2012.7.10  KS)


☆四国遍路の途中、立ち寄らせていただきました。
 「分け入つても分け入つても青い山」
 初めて読んだ山頭火の句で、その時、心に残ったものでした。
 季節は異なるものの、山道を独り歩きながら思い出しました。
 「霜月の伊予の遍路地 ひと恋し」              (2012.11.21 福島市 高泉 修)


 山頭火案内人の当番日誌にも、お遍路さんと出会いのお話が綴られています。
松山の人の中には、歩き遍路に出るとき、一草庵を訪ねて、無事にお遍路できますよう祈願して
遍路を始める人もいます。
 一草庵・そこは、51番札所石手寺から52番札所太山寺への遍路道で、一休みして鋭気
 養う特別霊場になったようです。

<追伸>
 どこの誰かは知らないけれど…、月光仮面ではありません。
 ”じゅん”さんという人が、訪庵録に6回も登場してくれてます。
  じゅんさんに、幸あれ!




2013年1月5日土曜日

台湾・高雄からの今年一番のメッセージ。

『第9回山頭火俳句ポスト賞』発表のブログをご覧下さい。

「第9回山頭火俳句ポスト」ブログです。(黄色の部分をクリック)

白石先生と本郷先生の選に選ばれた秋雨や心の中の落し物の句は、
台湾・義守大学の19歳、林子涵君の作です。

彼のメッセージが、
台湾・義守大学応用日本語 花城可裕先生から、新年早々届きました。

この度は、大変な賞を給わり、まことにありがとう御座いました。
俳句の聖地・松山での受賞は、私達外国で俳句を勉強している者の何よりの励みになります。
今回の受賞者・林君の「受賞の喜び」と題する文章です。

<受賞の喜び>
義守大学 応日系 三年 林子涵

秋雨を見ていると、まるで自分の心の中にも雨が降っているような感じになります。
そして、心の中に形容しがたい感情が浮かびます。
その気持ちには、寂しいとか、悲しいとか、苦しいとか、又は、嬉しいとか、楽しいとか、懐かしいとか…がごちゃごちゃに入り混じっています。

私の想いは一体何なんだろう?自分は何を探しているのか?何が望みなのか?
私は考えます。何度も、何度も…
この気持ちを俳句にしたのが「秋雨や心の中の落し物」でした。

二年生の時に、初めて作った俳句だそうです。
写真も送ってくれました。
記念品の山頭火Tシャツをきた林君、イケメンです。
説李守愛学科主任、林子涵君、花城先生

花城先生、メール有難うございました。
私、何よりも台湾の美空ひばり、テレサ・テンの大ファンでした、今でも。
(先生は、日本語の授業に俳句を取り入れているそうです。)


※台湾には、正岡子規の弟子・渡辺香墨がいて、果物好きの子規に台湾のバナナを送ったという記録も残っています。
河東碧梧桐も、台湾鉄道縦貫全通記念の式典に訪問し、台湾にいる俳人たちに刺激を与えているようです。


さて、全世界の皆さん、郵送での山頭火俳句ポストへの投句も受け付けます。
どんどん投句してください。

 投句先、〒799-2651
       日本国愛媛県松山市堀江町甲1615-3
       NPO法人まつやま山頭火倶楽部
        「山頭火俳句ポスト」係 宛て

 次回、俳句ポスト開函日は、3月31日です。

山頭火倶楽部では、春と秋に「俳句一草庵」というイベントを開催しています。
春は、全国から俳句を募集し、秋は、山頭火と歩こう吟行句会を実施しています。

今年は、秋の俳句一草庵は、東京で開催されている「一茶・山頭火俳句大会」に協力して、
一茶・山頭火全国俳句大会」を松山で開催する予定です。
 金子兜太先生や村上護先生も来てくれるそうです。

松山の人たちは、「俳句一草庵」と言えば、山頭火の好きな人の句会だと思っているようですが
そうではありません。
「俳句甲子園」に準じた俳句大会にしたいと願望しているのです。

俳句甲子園って、素晴らしいですよ、若い人の純粋な熱気がプンプン、松山・商店街の大街道に激しい青春のディベートが飛び交います。

知らないうちに、春の「俳句一草庵」へは、全国の高校生が、夏の俳句甲子園の予行演習だといって投句してくれています。
 「俳句一草庵」は、高校生に限定しない、老若男女にとらわれない、全員参加型のオープン・ライブの句会です。

一草庵に設置した「山頭火俳句ポスト」には、アメリカ、オーストラリア、カナダ人の投句、そして、台湾からの投句もありました。フランスの俳人、韓国の俳人の人たちとも、ご縁ができました。

「俳句一草庵」、世界各国からの自由に参加できるライブ句会になれば、素晴らしいですね。
 今や、俳句こそ、お金の余りかからない、世界に知られている日本文化ではないでしょうか。

 絵を描くのに、それを表現するのに、洋画も、日本画もないじゃないですか、使う道具やルールが違うだけ。
音楽を奏でるのに、クラッシックも、JAZZも、演歌も、ツールと表現方法が違うだけ。
茶道にも、華道にも、政治にも派閥が沢山あります。
お互いに刺激を求とめあえばいいのに、閉鎖的です。
オリンピックの競技には、それがないようです。
俳句の世界も、多分に閉鎖的社会のようですね。

 山頭火も亡くなって73年です。50年経つと、物にも骨董的価値が発生するそうです。
よって、山頭火も古典です。山頭火は、一草庵で、新しいほんとうの俳句を求め続けました。
芭蕉が言っているように
「古人の跡を求めず、古人の求めた所を求めよう」ではありませんか。

そんなことまで考えてしまった、台湾からの新年の嬉しいメッセージでした。

<追加>
 画家・中川一政の言葉を紹介しておきたい。

『日本では洋画と日本画とを区別している。随分おかしい。そして肩書にも、日本画家、洋画家と区別している。なるほど材料は違うが、同じ画かきではないか。画かきに区別はない。…

 梅原龍三郎は、美術は感動だということを教えた。「美術」というから、美しくなければいけないと、みんな思っているようだけど、いつも言うように、画はきたなくていい。それよりも生きているか死んでいるかが、大事なことだ。美しく整って死んでいる画より、きたなくても息をしていればいい。…

 日本の芸術というのは、昔から花鳥風月ということを大事にしてきた。川端康成がノーベル賞をもらって「雪月花」と言っただろう。あれなんだよ。俳句も和歌もそうだし、画にしても床の間に掛けて、かわいがられた。みんなにかわいがられて、お茶を飲む相手になったきた。

 僕の画というのは、感動をいかにして画のなかに入れるか、ということだ。… 「花鳥風月」を描くのではない。だから感動が死んでしまうような画は描かない。
 だけれども、「美術」というからには美しくなくてはならない、という間違った考えは、まだまだ多い。
「花鳥風月」が、すいぶん多いよ。
 この間、書をかいてくれ、と頼まれた。「花鳥風月」と書いてくれ、といわれてね。困ってしまった。
書けないよ、そんなの。』

2013年1月1日火曜日

ふりかへらない道をいそぐ

ブログ読者に、新年の挨拶をしておかなくてはと思いました。
新年にあたって、瀬戸内海の太陽に向かって、山頭火の句を発信させて頂きます。

  ふりかへらない道をいそぐ 山頭火


震災の復旧も進んでいませんね、原発問題も対策会議を開くとか、メンバーもなかなか決まりません。牛の歩みより
のろいですね。
世の中スピード時代、病人のような歩みでは困ります。
 山頭火は”大種田”と言われた家を崩壊させ、そして家を捨て、妻も子供も捨てて、放浪の旅に出ましたね。
そんな山頭火が詠んだ句です。
 あの世から、日の本の国に向って メッセージを送ってくれているようです。
振り返っても過ぎ去った過去は帰ってこない、前を向いて歩いていこうよと…。

 この句は、昭和5年10月22日の日記に、
 「層雲」 昭和6年1月号に掲載されています。
 日向・宮崎の層雲三羽がらす、杉田作郎(すぎたさくろう)・中島闘牛児(なかじまとうぎゅうじ)・黒木紅足馬(くろきこだるま)を訪ねて、別れの時に詠んだ句のようです。

※ 忘れていました、オバマ大統領の新しいスローガン。
  FORMARD フォワード (前進) を。

 昨年暮れ、NPO法人まつやま山頭火倶楽部の4年間の歩みを1冊の記録集にまとめました。
頑張って1ケ月で製本しました。時をみて順次、紹介させていただきます。


山頭火ファンの皆さまへ、無常の中に光あれ!