今週の山頭火句

今週の山頭火句 二の丸三の丸さくらもみづりはじめて  山頭火

2012年10月22日月曜日

道元禅師の「身心脱落(しんじんだつらく)」と山頭火。

またまた恥をかいてしまいました。
山口県と愛媛県の曹洞宗青年会のグループ「山頭火を偲ぶ遍路の会(山頭火生誕130年記念)=山口県下関・高林寺主催」の御一行27名が、来庵(10月21日)。
松山八ケ寺の歩き遍路です。
浄瑠璃寺⇒八坂寺⇒西林寺⇒浄土寺⇒繁多寺⇒石手寺⇒<一草庵>⇒太山寺⇒円明寺

山頭火も種田耕畝という曹洞宗の僧侶なり。
曹洞宗機関誌「禅の風」平成15年10月の№27に特集山頭火~現代の漂白者~があったので、身の程も知らず、お坊さんたちに紹介したのです。

その中に、山頭火の言葉あり。それは山頭火自選句集「草木塔」 雑草風景の最後の言葉でした。

 風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。
私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである



文芸評論家・饗庭孝男
生存の思想と俳句
或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私であるが、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であることに間違ひはない。(昭和10年12月20日)

この道元禅師の禅語を”しんしんだつらく”と読んでしまった。
あとで、”しんじんだつらく”と読むことを教えていただいたのです。
身心脱落とは、道元禅師の用いている言葉で、身も心も一切の束縛からなくなることを意味し、
道元禅師は「身心脱落」の内容を「自己をわするる」なり、万法(=他)に塗りつぶされて、他一色になることだそうです。

続いて、山頭火の俳句を二つ紹介しました。

 やつぱり一人がよろしい雑草
 やつぱり一人はさみしい枯れ草

山頭火はひとりをさびしいと思い、自然と交わるとき、うれしいと感じるのです。
人間の持つ二重性を自覚し、巧みに使い分けているようです。修業する雲水として、ひとまわりも二まわりも大きい環境の中で、動物や草木と親しみ、交感し、生きるよろこびを知り、「身心脱落」とともに、自己再生を果たそうとしたのが、山頭火の道だというのです。

 最後に、永平寺三句を紹介。
 
 水音のたえずして御仏とあり
 てふてふひらひらいらかをこえた
 法堂(はっとう)あけはなつ明けはなれてゐる

新潟県鶴岡から、ホームレスのような乞食当然の姿の山頭火がやってきた。
永平寺の笛岡自照老師は、僧として山頭火を認め、宿坊で五カ日を過ごさせたのです。

今回、この内容を山頭火検定の問題に出題しました。

問46 昭和10(1935)年7月、乞食同然の姿で寺に辿り着いた山頭火を笛岡自照老師は、僧として認め、宿坊で5カ日を過ごさせました。

そこで次の3句を残しました。
「水音のたえずして御仏とあり」「てふてふひらひらいらかをこえた」「法堂あけはなつ明けはなたれている」 このお寺は、どこですか。

          1 中尊寺  
          2 宇治平等院  
          3 永平寺

今日は、一草庵が一瞬、お寺の本堂のように変身し、素晴らしい回向がはじまったのです。
修証義の読経……、そして各自それぞれ短冊に書かれた俳句を奉納するのです。


 <一草庵訪問記・画像=山頭火を偲ぶ曹洞宗青年会>

目を閉じると、山頭火さんの喜んでいる姿が、くっきりと浮かんできました。
  捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
なにもか捨てようとした山頭火でしたが、世の中から逃げたように思えるけれど俳句だけは、捨てなかった。
此の世に生まれた以上、人生のすべては苦であり、理想と現実のズレに苦しむ(釈迦の教え)。
俳句を通じて、山頭火は自分と向かい合って、人生の真理を求め続けたのです。
その俳句は、世界中の人たち読まれて、その心を捉えます。
そして彼の綴った日記は、赤裸々なやさしく書かれた仏教書のようではありませんか。

 昭和15年2月11日の松山日記は、懺悔文ではじまります。

  往昔所造諸惡業
  皆由無始貪嗔痴
  從身語意之所生
  一切我今皆懺悔

やはり山頭火は、だだの酒飲みではなかった。    
山頭火を偲ぶ遍路の会の皆さん、本当にありがとうございました。

※追加報告
 さる10月20日(土)に、第7回松山市青少年育成市民大会に参加して、
「一草庵夏の子どもまつり」の活動報告の展示をしました。夏の子どもまつりのスナップ写真です。

「一草庵夏の子どもまつり」活動報告フォト。
夏の子どもまつりにも参加してくれた
湯築小学校の音楽隊の演奏素晴らしかった。