企画・展示したのは、亀本美沙さん、よくまとめてくれました。
山頭火倶楽部で研修をかねて来館。
山頭火は、昭和14年10月1日、
ひよいと四国へ晴れきつてゐる
と詠み、松山を死場所と決めて来松しました。やっと見つけた野村朱鱗洞の墓参をすませて、10月6日四国連路へ旅立つ。(10月6日から11月21日の47日間)
小豆島の放哉の墓を訪ねて、11月26日結願・大窪寺を詣でる。山頭火句碑あり。
ここや打留の水のあふれてゐる
阿波路の記録は、句日記と遍路日記(11月1日~3日)を残している。
10月26日、木村緑平に葉書を出している。
いそぐやうな、いそがないやうな気分で歩いてゐます、これから阿波路に入りますが、何となく感傷的になって困ります、実ハ旅費が切れ、そして行乞は思うにまかせず、松山へ出るまでお立替願えませんでせうか、どうぞどうぞよろしく。
(阿波撫養局留置で)
阿波撫養局とは、今の鳴門郵便局である。
山頭火は、10月27日~11月3日(8日間)阿波路を遍路する。
野宿を繰り返しながらの撫養街道の山頭火の句がいいので紹介しておく、
月夜あかるい舟がありその中で寝る
泊めてくれない折からの月が行手を
銀杏いろづくその下でお昼にする
枯草しいて月をまうえに
まどろめばふるさと夢の葦の葉ずれ
旅空ほつかり朝月がある
山頭火が11月1日に立ち寄った「阿波十兵衛屋敷」を見学し、帰路に着く。