今週の山頭火句

今週の山頭火句 旅のかきおき書きかへておく  山頭火

2012年5月13日日曜日

「第6回俳句一草庵受賞俳句」の紹介

第6回の俳句一草庵を、平成24年4月28日開催しました。
その受賞句を紹介します。
参加者約50人と俳句選者の先生と一緒になって俳句賞を選びました。
一草庵会場賞は、会場に参加した人たちによる賞です。


俳句一草庵大賞
麦青むいのち太鼓のやうに鳴る  済美平成高1年 白石沙織
(評)晩秋の「麦蒔」、冬から早春にかけての「麦踏」の過程を経て、いよいよ「麦青む」春の到来である。この作品では、晩春から初夏にかけて「青麦」から「麦秋」へと著しく成長する「麦」、即ち、「いのち」そのものを、「太鼓のやうに鳴る」とした把握が見事。
ドンドンと太鼓のように鳴り響く「いのち」、それは「麦青む」の「青」に象徴される青春性そのものであり、「太鼓のやうに鳴るいのち」の名詞止めではなく、「いのち太鼓のやうに鳴る」と動詞で止めたことにより、躍動感あふれる一句となっている。(白石)

松山市文化協会会長賞
春の星ペン先で結ぶ君と僕   伯方高2年 赤瀬泉希
(評)十代の少年と少女の淡い恋を連想させる。二人の間で、手紙を交換しているのだろうか。
青春期の素敵な一コマを表現し、「春の星」の取り合わせが初々しい内容の背景となって巧みである。(本郷)

一浴一杯賞
ピアス取り素に戻りたる春の宵   松山 片岡誠子
(評)ピアスは、装う女性の大切な小道具の一つ。正装で外出先から帰った彼女は、頭を傾けて右の耳から、次いで左の耳からピアスを外す。その時、緊張感からも完全に解放され、普段に自分に戻る。時は、価千金の春宵の一刻。「ありのまま」を表す「素手」が効いた。(熊野)



小西昭夫・特選
空の下青い私と青い木々   松山東1年 越智菜月

(評)もう「青い私」などと言えない年齢になると、こうストレートに
「青い私」と言われるとその若さがまぶしい。「青い私」と「青い木々」
という対句表現も端的で気持ちがいい。青い空の下の青い私と青い木々。
無季の句であることが余計に若さを引きたてている。

入選
自在という言葉がうしろからツバメ  東京 本山麓草
(評)ツバメを自在ととらえるのは当たり前と言えば当たり前なのだが、この句の面白さは「ツバメの自在」を「言葉」としてとらえたところ。
「自在」という言葉がうしろから飛んできたのだ。「ツバメ」で収める六九三のリズムも新鮮である。

白石司子・特選
梅雨曇り虫歯痛ムコト知ル多少   松山東1年 仙波大征
(評)なんとも鬱陶しい「梅雨曇り」。それに続く「虫歯痛ムコト知ル多少」は、孟浩然の五言絶句「春暁」の第四句「花落知多少」のもじりである。
つかのまの春の陶然たるひとときを描いた「春暁」に対し、長期に亘る「梅雨曇り」に似た、じくじくとした「虫歯」の痛みであるが、「虫歯痛ムコト知ル多少」の機械的な響きが、他人事のようで何となく滑稽味をさそう。もじりの句としては際どいかもしないけれども、季節の感覚をうまく捉えているという点において成功していると思う。
入選
スプーンの銀の中より蝿生まる    松山東2年 森田佳穂  
(評)「五月蠅」を「うるさい」と読ませるように、五月蠅いものの代表とされ、あちこちに病原菌を振りまく「蠅」。しかし、どんなに疎まれていても命は尊い筈であり、作者の人間的やさしさの表出が「スプーンの銀の中より蠅生まる」である。新生児の幸運のシンボルでもある「銀のスプーン」。
この蠅は、いや、生あるもの全ては、きっと幸運がつかめるはずである。

本郷和子・特選
何ごともなきこと恐ろし春の宵     松山 三好真由美 
(評)人間は、日常何ごともなければ安心。突然に何かあれば、不安・心配・恐怖などに襲われる。しかし本当に何ごともないという空間はその裏に何かある。何が起きるのではないかという嵐の前の静けさにも似た怖さが潜んでいるのかも知れない。春の宵の平穏さが不安感に繋がったのであろう。作者の心理判断の句である。
入選
鉛筆を尖らせてゐる木の芽どき      松山 松井光子
(評)木の芽吹く頃は、心が不安定になる人も多い。鉛筆をピンピンと尖らせているこの感覚は、人間の内面を突き、一種の鋭さがある。鉛筆を尖らせる動作には、山姥が包丁を研ぐようなあの場面と一瞬通ずるものがある。あるいは、芽吹いてくる自然と共に人間と共に人間を謳歌している明るい一句とも言えるだろう。

熊野伸二・特選
自転車でぐんぐん切り割く春の風   松山東1年 佐原咲希         
(評)若草の萌える土手の道を、向い風の中、勢いよく自転車で駆け抜けていく少年が見える。
「ぐんぐん」の表現は俳句的とはいえないが、ジュニアの作者の素直な言葉として、むしろ好感が
持てる。風を「切り割く」のも良い。
入選
さくら餅少女の白き膝頭        松山  米山千秋 
(評)さくら餅のえも言われぬ甘い香りと、少女の無垢な膝頭が不思議にマッチして、晩春のアンニュイを感じさせる。取り合わせの妙を採った。

朗善(特別選者)・特選
友達の関係さっと衣替え    洛南高校2年 黒宮みの里        
(評)学生時代の友達関係はとても微妙。ちょっとしたことでも、がらりと変わる。
学校の衣替えもまた、劇的に変わる。長袖の制服が、半袖に変わった。とたんに、くしゃくしていた友達関係も、さっと変化した。さらりと詠んで、深い句。

一草庵会場賞
梅一輪死者は生者の内に生き     松山 三好真由美
(評)春まだ浅い冷気の中に咲く梅一輪を見て、今は亡き人を偲ぶ。梅の花の凛とした気配が、
思い出の人の人格をも象徴していそう。深い哀悼の気持ちは、亡き人をいつまで心の中に住
まわせ続けるかに、かかっているともいえる。(熊野)

さくら餅少女の白き膝頭        松山 米山千秋 
(評)さくら餅の、あの独特の甘い香りと、汚れなき乙女の膝頭。ともにある種の蠱惑を感じさせて、ドキリとなる。ジュニアの作者にそこまでの読みがあったか否か不明だが、取り合わせの妙に感心。(熊野)

春の波子供のまりをさらいゆく    松山 佐藤トラエ
(評)浜辺で遊ぶ子供から、波がまりをさらっていった。追えば取り戻せる楽しい遊びだろう。だが、東日本大震災後に、この句を読むと、まりと同時に子供もさらわれたのではないかーと不安感を禁じ得ない。深読みし過ぎか。(熊野)

今を生き今を一途に花一樹      松山 岩崎美世
(評)今、生き、今、一、一と「イ」音の繰り返しがあり、今と一が二度繰り返される面白さがある。最初の「今」は現在、二度目の「今」は限られた時間ともいえる。自らの生き様を、懸命に咲く花に託した決意表明だ。(熊野)

ばあちゃんの時間の匂い毛糸玉     伯方高2年 赤瀬泉希
(評)羊毛を紡いで毛糸玉に仕上げた「ばあちゃん」の根気。その作業の継続を「時間の匂い」と詠む表現の面白さ。「祖母」でなく「ばあちゃん」と呼ぶところに、孫の親愛の情がにじんでいる。(熊野)

一草庵若葉大賞
ふらここや風とおしゃべり強くこぐ 飛騨神岡高2年 三井里莉子
(評)「ふらここ」はブランコのこと。ブランコを漕ぎながら風とおしゃべりをする。
もちろん、自問自答なのだが、気持ちが弾むとブランコを強く漕ぐことになる。
「ふらここ」といういい言葉を知って使ってみたのだろうが、内容はいかにも若々しくて気持ちがいい。(小西)
一草若葉賞
十六の私の心苺色   飛騨神岡高1年 箕成智恵香
(評)「十六の私の心」である「苺色」、即ち「赤色」は、「情熱の色」であり、「いのちの色」でもある。上五を「十六歳」として完全に切り離すのではなく、「十六の」としたことで、その数詞は「私の心」にも掛かることになり、「苺」のように甘酸っぱい、思春期独自の多様な心の揺れを見事に描写している。(白石)

春一番眠っていたもの動き出す  松山東1年 河野真樹子
(評)春を呼ぶ風、春一番が吹くと、動植物、人間も命あるものすべて、眠りから覚めて
活動し始めるのだという感覚を捉えた句である。若々しくて素直である。(本郷)

ちはやふる神の遠吠え春疾風   松山東1年 下岡和也
(評)「千早振る」は神や社にかかる枕詞。ジュニアの詠者にして、この枕詞を用いるのに驚き
もあるが、春の疾風を「神の遠吠え」とみた感性に脱帽した。(熊野)