長建寺には句碑が多い。
門前には、昭和36年に建てられた大島梅屋の句碑がある。
梅屋は小学校の先生、子規と漱石が同居した愚陀仏庵の隣に住み、毎日のように句会に参加していた松風会会員。
句は三行に記し、右肩に「圧巻」その下に「子規子選」とある、子規の書である。
もりもりもりあがる雲へあゆむ 山頭火
母とゆくこの細径のたんぽぽの花 一洵
句碑は、一洵の19回忌、昭和51年1月26日に建立された。
一洵さんは、お母さんのことを語らない日はなかったと、この句が選ばれた。
山頭火も同じように母の位牌を抱いて托鉢、一洵さん、五十九歳で亡くなられた、同じく山頭火も五十九歳だった。
一洵さんの句碑を建てる時、その前に山頭火翁の旅姿に似た七尺の巨石があり、歓喜して建てたとのこと、二人の語り合う姿が今も見えるようだ。
右手庭のほうへ進むと、無造作に子規の句碑が転がっていた。
筆に声あり霰の竹打つごとし 子規
明治31年12月の作。
「子規を一俳人、だだの俳句の先生とのみ見ていた者は、新聞記者としての子規の活躍ぶりの多芸多能と、敏感、適応性に驚嘆した」との碧梧桐の一文あり、新聞記者として竹を打つ霰のような鋭い記者魂が窺える。
庭を進んでいくと、芭蕉の句碑がある。
芭蕉44歳、1687年、江戸深川の草庵での句のようだが、長建寺に刻まれた句碑は、記録もなく、いつ建てられたか、由来もわからない。
つい見過ごしてしまいそうな何気ない日常の一コマに気づいて感動し、そこから真理を読み取る鋭敏な感受性をもちつづけておられることが凄いと。(南無の会代表・臨済宗僧侶松原泰道)
長建寺には、句碑以外に興味を引く墓が二つある。
一つは、永井ふさ子の一人墓。斉藤茂吉の愛人であった永井ふさ子が、永井家累代の墓には入らず、間をおいて小さくひっそりと佇む。お墓の背面に、
ありし日の如くに杏花咲けり み魂かえらむこの春の雨 ふさ
が刻まれている。父の命を縮めたのは自分だ、と歌う。
茂吉52歳、ふさ子24歳。年の差は28歳。
しかし、師弟関係から男女の仲に変わるのに、時間はかからなかった。
愛人ふさ子はとびっきりの美人であった。茂吉は、手紙に「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」と
書いた有名なくだりが残こされている。
茂吉とふさ子の合作の歌。前が茂吉、後がふさ子。
光放つ神に守られもろともに
あはれひとつの息を息づく
茂吉の死後、恋の往復書簡を公表。(「小説中央公論」昭和38年7月~11月号)
歌壇は騒然となったが、非難の声はふさ子へと集中した。
茂吉は、正岡子規に影響を受けた「アララギ」の代表歌人。
自分の考え方を「実相観入」という言葉で表現する。
「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」
外界を表現するのか、内面を表現するのかという対立を、象徴的な自然描写によって統一的に表現しようとする。
これこそ、俳句は象徴詩だといった、山頭火の俳句の世界だ。
興奮を抑えて、もう一つの高橋丈雄の墓を紹介しておこう。
太宰治にも絶賛され、林芙美子とも交流のあった小説家・尾崎翠の恋人だった劇作家・高橋丈雄のお墓がある。翠36歳、丈雄26歳。こちらの年の差は10歳。
尾崎翠のこんな詩を見つけた。
おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみておもひを野に捨てよ
おもかげをわすれかねつつ
ように脚光を浴びるかも知れない。
高橋丈雄の
「文壇では、僕が彼女を一時的にもて遊んで捨てたために、彼女はノイローゼになって帰郷したという噂が立ち、僕はアゼンとしました…」という手紙が紹介されていた。
愛媛出身の人と結婚して、丈雄は松山へ居を構える。
高橋丈雄、昭和4年に「改造」で入選した戯曲「死なす」で文壇にデビュー。
松山で文芸同人誌「アミーゴ」を創刊したり、演劇活動の指導者として活躍する。
随筆集「鳥と詩人」の中の「山の中の家」を紹介しておこう。
一草庵のある御幸山の中腹の一軒家に三年あまり家族で住んでいたとのこと。
山の中には電灯はあったが、水道や井戸はなかったらしい。
千秋寺の山門をくぐると、俳人山頭火が「どんこ川」と呼んでいた川幅二間あまりの小川があって
土橋がかかっていた。
「どんこ川」に沿って道後まで歩いてみる気になった。
ふと、私は、御幸寺にある、山頭火の句碑に挨拶していこうと思い、境内に入ってみたが、どこにも見当たらない。家々の垣根にはさまった路地を二度ばかり折れると、忽然とあの青い海の匂いのする自然石が現れた。
「鉄鉢の中へも霰」 大きく、刻みの深い文字が、昔より白く塗られて、鮮やかに読まれた。
長建寺のガイドが、私にまわってきそうなので、少し勉強をしてみた。
つい見過ごしてしまいそうな何気ない日常の一コマに気づいて感動し、そこから真理を読み取る鋭敏な感受性をもちつづけておられることが凄いと。(南無の会代表・臨済宗僧侶松原泰道)
長建寺には、句碑以外に興味を引く墓が二つある。
一つは、永井ふさ子の一人墓。斉藤茂吉の愛人であった永井ふさ子が、永井家累代の墓には入らず、間をおいて小さくひっそりと佇む。お墓の背面に、
が刻まれている。父の命を縮めたのは自分だ、と歌う。
茂吉52歳、ふさ子24歳。年の差は28歳。
しかし、師弟関係から男女の仲に変わるのに、時間はかからなかった。
愛人ふさ子はとびっきりの美人であった。茂吉は、手紙に「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」と
書いた有名なくだりが残こされている。
茂吉とふさ子の合作の歌。前が茂吉、後がふさ子。
光放つ神に守られもろともに
あはれひとつの息を息づく
茂吉の死後、恋の往復書簡を公表。(「小説中央公論」昭和38年7月~11月号)
歌壇は騒然となったが、非難の声はふさ子へと集中した。
茂吉は、正岡子規に影響を受けた「アララギ」の代表歌人。
自分の考え方を「実相観入」という言葉で表現する。
「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」
外界を表現するのか、内面を表現するのかという対立を、象徴的な自然描写によって統一的に表現しようとする。
これこそ、俳句は象徴詩だといった、山頭火の俳句の世界だ。
興奮を抑えて、もう一つの高橋丈雄の墓を紹介しておこう。
太宰治にも絶賛され、林芙美子とも交流のあった小説家・尾崎翠の恋人だった劇作家・高橋丈雄のお墓がある。翠36歳、丈雄26歳。こちらの年の差は10歳。
尾崎翠のこんな詩を見つけた。
おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみておもひを野に捨てよ
おもかげをわすれかねつつ
こころくるしきときは
風とともにあゆみて
おもかげを風にあたえへよ
彼女は、鳥取県石美町岩井温泉の出身、花屋旅館に尾崎翠記念館ができている、金子みすずのおもかげを風にあたえへよ
ように脚光を浴びるかも知れない。
高橋丈雄の
「文壇では、僕が彼女を一時的にもて遊んで捨てたために、彼女はノイローゼになって帰郷したという噂が立ち、僕はアゼンとしました…」という手紙が紹介されていた。
愛媛出身の人と結婚して、丈雄は松山へ居を構える。
高橋丈雄、昭和4年に「改造」で入選した戯曲「死なす」で文壇にデビュー。
松山で文芸同人誌「アミーゴ」を創刊したり、演劇活動の指導者として活躍する。
随筆集「鳥と詩人」の中の「山の中の家」を紹介しておこう。
一草庵のある御幸山の中腹の一軒家に三年あまり家族で住んでいたとのこと。
山の中には電灯はあったが、水道や井戸はなかったらしい。
千秋寺の山門をくぐると、俳人山頭火が「どんこ川」と呼んでいた川幅二間あまりの小川があって
土橋がかかっていた。
「どんこ川」に沿って道後まで歩いてみる気になった。
ふと、私は、御幸寺にある、山頭火の句碑に挨拶していこうと思い、境内に入ってみたが、どこにも見当たらない。家々の垣根にはさまった路地を二度ばかり折れると、忽然とあの青い海の匂いのする自然石が現れた。
「鉄鉢の中へも霰」 大きく、刻みの深い文字が、昔より白く塗られて、鮮やかに読まれた。
長建寺のガイドが、私にまわってきそうなので、少し勉強をしてみた。
尚、長建寺には、正岡子規や秋山真之の和歌の先生であった井手真棹(まさお、本名正雄)の墓もある。