今週の山頭火句

今週の山頭火句 笠にとんぼをとまらせてあるく  山頭火

2012年2月17日金曜日

新たな山頭火句碑を訪ねて、石手寺沿い句碑散策。

2月8日(句碑除幕)。
道後温泉から石手寺沿いに、子規・漱石・山頭火の句碑が設置された。
松山北ライオンズクラブ30周年記念事業によるもの、石は西条の青石。
   分け入つても分け入つても青い山                       山頭火
   送子規 御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花     漱石
     砂土手や西日をうけてそばの花                            子規
早速、句碑散策へ出かけました。

前は道後、後ろが石手寺
子規記念博物館で、子規遺稿「散策集」(200円)を買って。

正岡子規は、明治16年6月10日上京。
明治28年8月25日、松山へ帰省。9回目の帰省、これが最後の帰省となる。
「自分のうちへ行くのかと思つたら自分のうちへも行かず、親類のうちへも行かず此処にいるのだといふ」
(「ホトトギス」での漱石追憶記)
子規は「漱石の寓居の一間を借りてー桔梗活けてしばらく假の書斎哉」と詠ず。
この書斎とは2番町の愚陀佛庵、毎日のように句会が開かれる。
9月20日。
柳原極堂は、子規を訪問。「保養中の子規が石手寺まで散歩しよう。君も同行し給え」と、子規がいうので二人で吟行。その時の、松山近郊5回の散歩吟行集を子規は「散策集」と題した。
   草の花少しありけば道後なり      子規
   砂土手や西日をうけてそばの花  子規
この日、この句などを詠む。
  ※砂土手  現在の松山商業高校裏手あたりから松山東高校の西手をへて北へ約1キロ、
         南北に長く横たわる小高い砂丘、もと松山城防衛のために築かれたもの

「散策集」は友人近藤我観が保管していたが、戦災で消失するのだが…。
昭和8年6月、極堂が病床の我観を見舞った時、その存在がわかり、
子規全集にも収録されていなかったものが、俳句誌「鶏頭」に公表される、はじめて世に出た。
散策集のことなどは、「友人子規」柳原極堂書(昭和18年)を参考にされたし、名著なり。

右「友人子規」、装丁・下村為山

漱石の句碑は、
子規が10月19日、松山を立ち帰京する時、
中ノ川・蓮福寺の送別会での句。
句の頭に「送子規」と題して
   御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花   
と詠む、子規は再び故郷松山の風景を見ることはなかった。

この山頭火の句は、一草庵に庵主がいたころ、いつも床の間に掛けられていた。
今、子規博に保存されている半切の書「分け入つても」を刻む。


山頭火は道後温泉の帰り、ちびた下駄を履いて、
この道を歩いて、石手寺地蔵院・水崎住職を訪ねている。
地蔵院には、平成2年10月11日建てられた
 うれしいこともかなしいことも草しげる  山頭火
の句碑がある。
 山頭火の句碑は、個人宅の句碑を入れると1000基を超えているであろう。
 松尾芭蕉の句碑約3300基についで多い。
 人気のバロメータのようだ。

※山頭火句碑の前に、歩く遍路の達人・中務茂兵衛の壱百十七度目の道標があった。茂兵衛という人は、四国八十八ヵ所を280回も回ったという超人。280回×88ヵ所=24640ヶ寺、総距離約40万キロ。
茂兵衛さんは、山口県周防大島の人で、寅さんの歌を作詞した星野哲郎の生まれた島として有名なみかんの島。
 山頭火も生野島の名ある陶芸家・迦洞無坪を度々訪ねている。

<石手に子規、漱石、山頭火句碑を訪ねて>
「俳句」という言葉を世に出し広めたのは、子規さん。
「俳諧の連歌(多行詩)」を「俳句(一行詩)」に集約した。
そして、「写生」という手法を取り入れる。
漱石は、子規の影響により俳句にのめり込む。そして俳句的小説「草枕」を発表する。
子規没後、「ホトトギス」は虚子、「日本及び日本人」の「日本俳句」を碧梧洞が引き継ぐ。
碧梧洞は「新傾向運動」を展開し、「新傾向に非ざれば俳句に非ず」といわれる最高潮までに盛り上げた。
明治44年新傾向の俳句雑誌として「層雲」を荻原井泉水が創刊する。
その中より「新しい俳句」を作る山頭火や放哉が産まれる。

「俳句研究」の編集長をしていた高柳重信によると、(昭和48年「俳句とエッセイ」創刊号)
定型派俳人は、山頭火に対しても、放哉に対しても、かなり冷淡で、積極的な関心をもたなかった。
俳句および俳壇の歴史として、
大正末期から昭和初頭にかけての四Sの登場、昭和6年から15年にかけての新興俳句運動の勃興と終焉、そして人間探求派の拓頭、以後の戦後俳句のさまざまな展開へと続いてゆく。
この歴史に自由律俳句の業績、それに先立つ新傾向の軌跡が脱落している。
保守的な定型派の俳人にとって、子規没後から、虚子の復活にいたるまでの歳月は、いかがわしい俳句が氾濫した、おぞましい時間の流れとして、触れたくない、知りたくない時代なのだろう。
それにしても、山頭火や放哉はその時代を生きぬいた自由律派の俳人だった。
…いま、しきりに読まれている山頭火は、もっぱら山頭火の放浪日記であり、その日記の内容によって読み方を強く限定されてしまった山頭火の俳句である。…
山頭火の俳句は、その異常な日常を誌した日記の中に置かれると、急に魅力を増してくるのだとも言い得るのである。そこに存在する山頭火は、多くの読者たちにとって何ごとかの身代わりを演じていることになる。極端に言えば、そうしたときに限って、山頭火の俳句は生々としてくるのである。


今、山頭火の句は、小学校、中学校、高校の教科書にも取りあげられ、教えられているという。
山頭火の生きざまは沢山の本によって、紹介され尽くしているようだが、
今こそ、俳句に生きた「山頭火俳句論」の発表が望まれる時期がきたのではないだろうか。!?