台湾句集「ゆうかりぷたす」 |
雲の峰馬八方に戯れる 李昱嫻
風薫る明け方黒い田舎道 翁偉舜
廃線の途切れるところ雲の峰 劉奕辰
雲の峰背にして坂を駆け下りる 廬小依
春の朝真白き服で街を行く 林君維
春雨やマリアの涙音もなく 昝佳雯
それよりも私は、八田與一技師七十周年の記事が目にとまってしまいました。
「台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯」という本を知っていたからです。
その本は、松山の出版社「創風社」から出版されています。
著者は、古川勝三さん。宇和島出身の先生で、高浜中学の校長先生もされていた。
友達に本を借りて、徹夜して読んだ、思わず涙しました。
八田與一(はった・よいち)。
八田與一、石川県金沢の生まれ、四高から、東京帝大土木工学科へ。
同期には、河合良成や正力松太郎がいた。
土木工事の新天地を求めて・台湾に自分を生かす道を選ぶ。
台湾は、サツマイモの形をした九州とほぼ同じ面積の島。
その台湾の南部 高雄地区・台南市の開発に関わる。
およそ100万人の嘉南平原の農業従事者の生活に潤いを与える・東洋一のダム烏山頭(うざんとう)ダムを設計し、工事を完成させた。
その昔、高雄の上、台南にある嘉南地区は、作物の水だけでなく、飲料水にも苦しんでいた。
その10万ヘクタールの台地は、乾燥して水を欲しがり、そこに住む農民も飲料水に事欠いていた。與一は、ダムの適地を求めて、調査をする。
ダムの長さは、千メートル、高さ五十メートル。
灌漑する面積は、東京23区の2.5倍、香川県の面積に匹敵する。
烏山頭にダムをつくり、総貯水量1億6千6百八十万トンを貯水。
給排水路の総延長は、一万6千キロ、万里の長城の6倍の長さ、地球を半周する距離である。
このダムは、発電用のダムでなく、農民のための灌漑用のダムだった。
若干34歳の若き技師が、今日の金額で5千億ともいわれる巨大工事をやってのける。
工事は、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年9の10年の歳月をかけて完成する。
完成した、烏山頭貯水池に水が蓄えられた見事な一大人造湖・珊瑚譚。
作者は、烏山頭水庫とよなれている日本人が作ったコンクリートの一片も見えない人造の湖、珊瑚譚(さんごたん)が、今まで見たどの湖もより美しかったという。
様ような農作物ができるようになり、不毛の地・台湾最大の平原・嘉南平原は、「台湾最大の穀倉地帯」へと生まれ変わった。
「神の恵みだ。神の水だ。…」と農民は歓喜の声を上げる。
地元の人々は、感謝の気持ちを込めて、八田與一の銅像を造り、烏山頭ダムのほとりに建てる。
その銅像は、高い台座の上に立っているものでなく、
作業ズボンに作業靴を履いて、右手は二本の指で、頭髪をひねり、静かに珊瑚譚を見下ろしている。
銅像の後ろには、昭和21年に作られた御影石の八田夫妻の墓が建つ。
日本が戦争に負けた翌年のことである。
初代台湾総督・樺山資紀、児玉源太郎、後藤新平の像は、ことごとく破壊されるのだが…。
そんな日本色が一掃される時に、八田夫妻の墓は建てられた。
戦争は、昭和20年8月15日、日本の敗戦で幕を閉じる。
地元の人たちは、銅が高く売れている時に、盗まれたり、傷つけられないように、與一の銅像を守り続けた。そして與一の銅像は、戦前に作られた台湾に残る唯一の日本人の銅像となった。
そして、毎年、八田與一の「飲水思源」の墓前祭が行われている。
<詩経にある「飲水思源」とは、水を飲むときには、井戸を掘った人のことを思い感謝して飲めという意味らしい。>
昨年2012年5月8日には、八田與一技師没後70周年の式典が行われた。
(没後70年として、台湾の中華郵政は、與一の記念葉書や切手を作成発行している。)
写真「台湾を愛した日本人」より |
台湾歌壇の八田與一さんを偲ぶ短歌が本に紹介されていた。
八田氏の銅像と共に見はるかす珊瑚譚美しく曇れる朝も 黄教子
八田技師は神と祈られ烏山頭にダムの清流永久に流るる 荘淑貞
台湾の農民の父と敬はるる八田氏は銅像に名を残しゐて 顔雲鴻
八田ダムを世界遺産に登録せんとユネスコへ名を掲げる台湾 蔡西川
與一は、よく「他利即自利」といったそうです。
瀬戸内寂聴さんも、よく言っている「忘己利他」(もうこりた)のことだ。
「自分のことは忘れ、ひとのために生きる」・・・
作者は、台湾にいた時、「あたたは日本人だから、日本精神を持っていますよね」と聞かれた。
聞き返すと、
『嘘をつかない』『不正なお金は受け取らない』「失敗をしても他人のせいにしない』『与えられた仕事に最善を尽くす』の四っつ。
日本は良い教育をしてくれました。今日の台湾の発展は、この日本精神のおかげですよ」と語られ
返す言葉を失ったそうだ。
八田與一 1886年(明治19年)~1942年(昭和17年)
種田山頭火 1882年(明治15年)~1940年(昭和15年)
與一さん。
戦争にも行かず、仕事もしなかった山頭火より、尊敬できる人に違いない。
しかしまた、山頭火の俳句は、底辺で苦しむ人たちの心の支えになっているのがいい。
<補足>
與一の親友に、英秀璻(藤秀璻)がいたという、東大を卒業後、広島文理大学講師から広島大学名誉教授となる、晩年広島の徳応寺の住職となる、また歌人でもある。
山頭火を世に出した大山澄太氏とも深い親交があったので、山頭火も紹介されているかも知れない。
<追加>
大成建設・製作のDVD「民衆のために生きた土木技術者たち」をこと。
そのDVDに登場するのが、土木技師の青山士(あきら)、宮本武之輔、八田與一。
「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」の本の中にも、少し紹介されている。
それは、東京帝大での先生、広井勇(高知県佐川町出身)の教え子たちだった。
今日、図書館で「宮本武之輔」の顕彰碑の記事をみた。
彼の出身地、松山は高浜沖にある興居島(ごごしま)にその碑はある。
(知らない人が多いので、松山の郷土の偉人として紹介させていただきます。)
貧しい家に育ったが、卒業の時、東大で銀時計を貰う。
パナマ運河を開発した参加した青山士(あきら)の指導を受ける。
縁に結ばれているようなので、
宮本武之輔 のことを紹介しておきます。
利根川、信濃川の治水工事に貢献。
企画院次長。日本土木学会を立ち上げる。
【宮本武之輔】<森田実のホームページより>
かつて信濃川は洪水氾濫が多く、越後平野の農民は「子女を売る」ほどの苦しみにあえいでいた。江戸時代から分水計画が立てられたが、それは明治29年の未曾有の大洪水を契機として、明治42年内務省の直轄工事として着手された。分水路は大正12年に完成し、農民の200年にわたる悲願が達成された。
ところが昭和2年、流量を担う自在堰の陥没事故が発生し、越後平野が干上がった。そこで若きエース宮本武之輔が新可動堰の建設に当たることになった。
彼は小学生の頃父親が事業に失敗し、全財産を失って一家離散した。彼は中学に進学できず、瀬戸内航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。この悲運の体験が彼を終生「弱者の味方」に立たせることになった。昭和3年1月、新しい可動堰の建設が開始され、工事が終わりに近づいた昭和5年の7月末、猛烈な集中豪雨に襲われた。氾濫の危機が迫り、宮本は村人を守るか建設現場を守るかの苦しい選択を迫られた。彼は村人を守るために仮締め切りを切れ!と命じた。完成間近の建設現場は惨憺たる有様となった。こうした苦難を経て新しい可動堰は昭和6年に竣工した。以来、信濃川は2度と牙をむくことなく、越後平野は日本の代表的な米作り地帯へと生まれ変わり、農民たちは苦しみから救われた。
<再追加>
八田與一の座右の銘は、「他利即自利」。
「百年ダムを造った男 土木技師八田與一の生涯」 著・斎藤充功 も読んでみました。
台北には、いまも台湾総督は解体されずに、残っているそうだ。本に載っていた李登輝総統の言葉を、紹介しておきます。
「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くの方はご存じないでしょうが、嘉南大圳を大正9年から10年間かけて造り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。台湾南部の嘉義から台南までに広がる嘉南平野に素晴らしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊かにした人です。
今、その貯水池は、珊瑚譚と呼ばれ、湖畔に八田夫妻の墓があります。八田技師のブロンズ像も置かれています。」
また、次のような台湾の官田小学校の教師の言葉がありました。
「日本人にあまり知られていない八田技師に関心をもつには大変よいことだと思います。それと八田技師は政治とはなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけのダムを造った人物です。日本人はもっと関心をもつべきですね」