俳句甲子園で活躍中の済美平成中等教育学校・俳句部の皆さんと、山頭火の俳句を観賞しました。名付けて「俳句一草庵・課外授業」です。
約束事にとらわれない自由な俳句を作っ放浪の俳人・山頭火の句が、混沌とした時代に生きる現代の心に響くという。
「濁れる水の流れつつ澄む」の句で綴られた山頭火のドラマを見て、山頭火の句を学習しながら、自由なディベートをしてみようという授業です。
この道しかない春の雪ふる
もりもりもりあがる雲へあゆむ
第二回戦は、
捨てきれない荷物のおもさまえうしろ
まつすぐな道でさびしい
三好先生からは、私たちが作る俳句とは違いますが、勉強して、何かを吸収できれはと思っています、と挨拶がありました。
<少し印象に残った感想を!>
この道しかない春の雪ふる
”春の雪ふる”、”ふる”とまでは言わないで
”この道しかない春の雪”でいいのでは、、それではリズムが崩れる。冬の雪でなく、”春の雪”の言葉がいい、心の温かさを感じるなど。
もりもりもりあがる雲へあゆむ
五・七・五の句に、ある人が直してみた。
もりもりと もりあがる雲 へとあゆむ
やはり、山頭火の俳句のリズムが死んでしまう、ということになった。
まつすぐな道でさびしい 山頭火
この道は、何々国道、何々ハイウェイではないのです。
現実の道であると同時に、人生の道であるという象徴の道なのです。
俳句を鑑賞する場合、現実の道、現実を超えた道という二つの道を合わせて表現しなければ、すぐれた俳句にはならない。
俳句というものは、もっとも短い詩形ですから。
並べた言葉だけしか伝えることができないのであれば短歌や詩、小説に及ぶことは、とてもできません。
もっとも短い表現の俳句なるがゆえに、象徴的なる手法を考えざるえなかったのでしょう。
もっとも象徴的な手法も持った詩が俳句であり、象徴的な手法をもっているからこそ俳句はもっとも近代的で、もっとも現代的な詩であると言えるのです。
私は、こんな発言をしてしまった。
山頭火の俳句には、七音、七音の俳句が多い。
この道しかない春の雪ふる
濁れる水の流れつつ澄む
あるけばかつこういそげばかつこう
短歌の最後の部分、七・七の結の部分のような句が、山頭火の句一つの特徴です。
啄木の句を想い出した。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたはむる
こずかたのお城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心
この歌の最初の五・七・五の部分が、もしなかったら、
読み手の解釈は、ひとそれぞれに想いを馳せて、
そこに広がる世界は、すこぶる大きな世界となりそうだ。
この間、松山・三津でHさんと話をする機会を得た。俳句を漢詩に訳された本をいただいた。
山頭火の句の漢詩もあった。
子規の俳句よりも、山頭火の句の方が、スケールが大きいと感じたそうです。
そういえば、山頭火の句には、場所を特定した句は、少ない。
山口・防府での”ふるさと”の句は多いが、すべて象徴して表現しているようだ。
雨ふるふるさとははだしであるく
加藤楸邨の昭和十五年十月に創刊された「寒雷」の巻頭言に、
「俳句の中に人間の生きることを第一に重んずる。生活の真実を地盤としたところの俳句を求める。」とある。
山や川や風や花が詠まれていても、それは、人間がその中に生きているものでなくてはなりません。だから作品は物になり事になった自分という人間に外ならないのです。
花を詠むというのは、花の中に自分という人間を発見することなのです、と俳句表現の方法を述べている。
一代句集「草木塔」の山頭火の言葉を思い出した。
「風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほいがかほりとなり、色が光となるやうに。」
私の俳句性は、印象の象徴化、「個」をつうじて「全」を表現する。
その言葉は、結晶なり、圧縮にあらずして単純なり。
山頭火は、そんな俳句を純粋に作り続けた俳人のようだ。
愛媛新聞の高橋記者の記事「年代超え山頭火の魅力を探る」を紹介します。
済美平成の俳句部の皆さん、今年の「俳句甲子園」頑張ってくださいね。