今週の山頭火句

今週の山頭火句 朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし 山頭火

2013年10月10日木曜日

《俳句シンポジウム~樗堂・一茶・山頭火の世界~》

「樗堂・一茶・山頭火の世界 in まつやま」は
     平成25年10月12日(土)~13日(日)です。
 俳句シンポジウムは、14:00~15:30 となっています。

「一茶・山頭火俳句大会」の「俳句シンポジウム」を紹介します。

この企画は、山頭火研究者の第一人者だった故村上護先生の提案でした。
本棚には、村上先生の本がたくさん並んでいます。
本の扉を開くと、俳句を書いてくれていました。

      初旅やいのちの峠こして海  護

 大病(すい臓癌)後の句です。山頭火の顕彰に一生をかけられました。
世界が山頭火も認めています、これからますます評価されますよ。
句集というのは、なかなか売れないものですが、山頭火の「草木塔」は今でも世界で読まれています。松山の俳人は、山頭火を認めない人もいるようですが、来年は、松山で「一茶・山頭火俳句大会」をやりましょうよ。一茶を俳人と認めない人はいないでしょうと。

その村上先生の大学での卒業論文は、坂口安吾だったそうで、安吾忌には必ず参加し、裏方で支えていたそうです。
今私は、村上護編”俳句の達人30人が語る「私の極意」”を読んでいます、名著なり。
「俳句文庫」全30巻の巻頭対談「わが俳句を語る」をまとめたものです。聞き役の名手ですね。
 残された句集「其中つれづれ」に、その裏付けされた俳句の心がにじみ出ています。

さてさて、
樗堂は、旧暦8月21日(新暦10月4日)御手洗島の二条庵で没す、66歳、今年は没後200年です。

子規は、俳句の分類をし、「樗堂は松山第一寧ろ四国第一というべきもの」とし、次のような樗堂の俳句を選んでいます。

  涼しさのひとりにあまる庵かな
  我がしなバ庵を譲らんきりぎりす
  秋かせや鏡の翁我を見る

平明の中に含蓄のある句として賞讃します。
何故か、一茶の句を連想してしまう。
一茶は寛政7年正月15日。
観音寺・専念寺の五梅に紹介され、松山の十六日桜の見物にでかける。
そして樗堂を訪ねる、一茶33歳、樗堂47歳なり。

その一茶は、1763年5月5日長野県信濃町柏原の農家に生まれます。本年は生誕250年。
一茶は、江戸の文化文政の時代に全くの無名ではなかったが、葛飾派の一俳人でしかなかった。
子規は「信濃に一茶という畸人あり」と評するのみでした。

 一茶を世に出したのが、荻原井泉水です。大正14年に出版された「芭蕉と一茶」の本は、俳人のみならず、一般の人を驚かせたのです。


 一茶は、寛政時代に諸国行脚して「西国紀行」を残す。7年間の旅でした。寛政7年、伊予松山を訪れるのです。気に入って、翌寛政8年の秋から翌年の春まで、樗堂を訪ねて松山に滞在するのでした。










 それから145年後の昭和14年に、種田山頭火という放浪の俳人が

  秋晴れひよいと四国へ渡って来た 

と詠んで松山にやって来るのです。そして1年後昭和15年10月11日に「一草庵」でコロリ往生するのです。

今回の「俳句シンポジウム」は、俳都・松山を訪ねた一茶と山頭火を取り上げます。

二人とも俳句一筋に生きて、約1万句以上の俳句を世に残します。
そして、同じく約1年の月日を松山で過ごすのです。

 俳都・松山に残る江戸時代の俳句の庵が、樗堂の庚申庵です。
1800年、庚申の年に樗堂が芭蕉の幻住庵をイメージして造るのです。

  樗堂は、「庚申庵記」を、一茶は「七番日記」を、山頭火は「行乞記」等を残すのです。

その松山ゆかりの俳人を探る俳句シンポジウム」が、
10月13日(日)に子規記念博物館講堂で開催されるます。

 94歳の金子兜太さんは、体調悪く、ビデオで出演します。
長野に住み、一茶を研究する「海程」同人のフランス俳人マブソン青眼さんが来てくれます。
村上先生に代わって、あの木枯らし紋次郎こと、中村敦夫さんが登場します。
現在、朗読劇「山頭火物語」の公演をされています。
 樗堂の話は、庚申庵倶楽部理事長の松井忍さんが語ってくれます。

松山でしかできない、日本に誇れるイベントです、皆様のお越しをお待ちしています。
当日券1000円です。(当日投句料を含む)
 当日投句受付は、11:30~12:30となっています。


 ※ 愛媛銀行さんの協賛、水口酒造さん、土屋水産さん、大和屋別荘さん、かわさき眼科さん、愛麺さん、椿神社さんの支援をいただいています。

    主催は、一茶・山頭火俳句大会実行委員会です。
     委 員 長      一茶の寺・長久山本行寺山主 加茂一行
    副委員長    俳句誌「月の匣」主宰 水内慶太
   事務局長   「俳壇」編集長 田中利夫
     松山実行委員長  NPO法人まつやま山頭火倶楽部理事長 熊野伸二
     のメンバーが中心となって推進しています。

終りに、一茶のことなど。

 小林一茶の物語は、萩原井泉水の「創作・おらが春」
              田辺聖子の「ひねくれ一茶」
                             藤沢周平の「一茶」等があります。

 周平の「一茶」には、松山の場面も登場します。
 あとがきが名文でしたので、紹介しておきます。

 「一茶という人は、不思議な魅力を持つひとである。一度一茶の句を読むと、その中の何ほどかは、強く心をとらえてきて記憶に残る。しかもある親密な感情といったものと一緒に残る。これはいったいどこから来るのだろうかと考えることがたあった。

 われわれは、芭蕉の句や蕪村の句も記憶に残す。それは句がすぐれているからである。一茶にもすぐれた句はあるが、一茶の句の残り方は、そういう意味とは少し異なって、親近感のようもので残る。
  それはなぜかといえば、一茶はわれわれにもごくわかりやすい言葉で、句を作っているからだろうと思う。芭蕉や蕪村どころか、誤解を招く言い方かも知れないが、現代俳句よりもわかりやすい言葉で、一茶は句をつくっている。形も平明で、中味も平明でる。ちょっと啄木の短歌がわかりやすいように、一茶の句はわかりやすい。
 そしてそれは一茶が、当時流行の平談俗語を意識したというだけでは片付かない、もっと本質的な、生まれるべくして生まれた平明さのように思われる。」
            

 山頭火は、一茶の句を次のように観賞する。

「大の字に寝て涼しさよ淋しさよ―はさすがに一茶的である。いつもの一茶が出てゐるが、つづけて、淋しさよ―とうたつたところに、ひねくれてゐない正直な、すなほな一茶の涙が滲んでいるではないか。…」

 「いうまでもなく一茶は芭蕉的な深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な飄逸味がある。」