今週の山頭火句

今週の山頭火句 旅のかきおき書きかへておく  山頭火

2013年11月3日日曜日

「樗堂・一茶・山頭火吟行バスツアー」 (三津の渡しの巻)

小林一茶ゆかりの地として、「三津」にやってきました。
春や昔、十五万石の城下だった松山、今は人口52万人の都市ですが、そこから車で約10分のところに、戦災をまぬがれた古い歴史の面影が残っているレトロな街、それが三津浜です。

 伊予鉄「三津駅」に到着です。

「明治21年(1888年)わが国最初の軽便鉄道が走る。
夏目漱石は、開通7年後の陸蒸気(おかじょうき)に乗った。
「坊つちゃん」騒動は、三津上陸より始まる。

“停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。
ごろごろと5分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。……“」


すっかりと、さびれてしまった三津浜商店街の入り口のお店「練や正雪」で、じゃこてんをご馳走。
八幡浜のじゃこてんに、負けていませんよ。1枚 100円。
マブソンさん、紗希さん お味いかがですか。

吟行は、説明はない方がいいというので、省略したのですが…ここで補足しておきます。

<辻井戸>という処へ、少し説明。

 寛永12年(1635年)桑名から松山藩主に松平定行が転ぜられたとき、
定行は三津の御船手(水軍)四百戸の水を確保するため、
この地に井戸を掘らせました。
これが辻井戸です、文字通り、四つの町の道が交差する場所であったため、
この名前がつきました。

<遠藤味噌醤油店>(特別に見学させていただきました。)

創業150年。古い町には、酒蔵と醤油屋が多い。
三津浜には、現在醤油屋さんが4軒残っています。
この遠藤さん辺りの路地風景が大変好きです、私はひとり、松山の倉敷と呼ぶことにしています。



マブソン青眼さん、早速お味噌のお買い上げ。

続いて、<荒瀬染物店>
 創業大正8年。松山で祭のパッピをつくる店はここしか残っていないそうです。
俳句できましたか、紗希さんと夏緒さん。バックは、荒瀬染物店。

 三津の鯛が味わえる俳諧ゆかりの家「森家」へちょっと訪問。

森家は、子規が唯一師事した俳諧の師・大原其戎の後援者。
其戎が発刊した月刊俳誌「真砂の志良辺」は全国で3番目の俳誌。
「虫の音を踏(み)わけ行(く)や野の小道
(真砂之志良辺に載る、子規の句として初めて活字になった。子規、数年21歳)

いよいよ、「三津の渡し」に到着です。

応仁の乱は、何年に起りましたか。1467年、正解です。
「人の世は虚しい」と覚えました。
京都の人は、いまでも戦争と言えば、「応仁の乱」です。
11年も続いたのですから…。第二次世界大戦でも、3年です。

さて、「三津の渡し」は、応仁の乱が始まった時にさかのぼります。
対岸にあった港山城主・河野道春が、兵士の食糧を農漁村から調達するために、舟の渡しをつくったのが起源とされています。

小林一茶は、今から200年以上前の寛政7年2月5日、松山から三津入りをする。
樗堂の妻・虎女(俳号・羅蝶)の実家、三津の豪商・森方十の邸宅を訪れて、
2月5日から11日まで三津に滞在するのです。

三津の渡しを渡ったところにあった「洗心庵」に行ったことが
西国紀行(寛政7年紀行)に記録されています。

「五日 松山を出て、二里、三津濱、方十亭を主とす、
九日 人々と共に、小深里の洗心庵に会す、
      前文略
   汲みて知るぬるみに昔なつかしや
   旧懐の俳諧して浦辺を逍遥して、

    にな蟹となりて女に嫌はれな
    山やく山火となりて日の暮る哉
    梅の月一枚のこす雨戸哉

十一日 三津を出で又八反地村に戻る 途中吟 遠望

    凧青葉を出つ入つかな            」


その舟は、昭和45年万博の年、手こぎ舟からポンポン舟に替り、
「三津の渡し」として、海の道、松山市道高浜2号線を行き通っています。
定員12名の小さな舟が、対岸を往復。距離80m、時間は2分。
松山市の職員が運転、乗車料は無料。






  春や昔十五万石の城下かな   子規

秋の潮風を受けて
一茶も乗った「三津の渡し」を往復しました。

  秋や昔一茶ののりし渡し舟   


参加者は、こんな句を詠まれまれていました。


  三津浜の指呼の渡しや天高し   井門敬之

  秋風やふらんす人の一茶ゐて   田代夏緒

  舟はひと波は日を乗せ天高し   鈴木恭子


フランス俳人・マブソン青眼さん、エンジンの音にあわせて歌います。