今週の山頭火句

今週の山頭火句 旅のかきおき書きかへておく  山頭火

2016年5月10日火曜日

『第11回俳句一草庵特選句』 愛媛新聞に掲載!

『第11回俳句一草庵特選句』が、愛媛新聞に掲載されましたので、紹介します。







『俳句一草庵」入選句です。

  『第11回俳句一草庵賞』

     
俳句一草庵大賞

 石ころは蹴られて高き天を知る      松山市 岩田厚子

松山市文化協会会長

 北になほ北の空あり鳥帰る        東京都 加茂一行

山頭火一浴一杯賞 

 島に生き島に母逝く花蜜柑        松山市 加藤俊子

山頭火柿しぐれ賞

 夕暮の枯葉が土になる匂い   松山西中教育等学校  善家 匠

村上護記念賞(水内慶太選)

煙突が一本減りて羽抜鶏           東京都 浅野義夫 

 最近見かけなくなった「煙突」だが、工場の煙突か、あるいは銭湯の煙突かは、
ここでははっきりしない。どこの煙突かでイメージはだいぶ変わるのだが、ここではそのことは問題としない。ただ「煙突」そのモノが主役だ。すなわち、煙突がたくさん建っていたころは、それ自体が経済成長の証で、モクモクと元気を巻き散らしていた。その時代に生きてきた者には寂し限りだが、その思いは「羽抜鶏」が充分に伝えてくれている。優しい言葉の構成ゆえに、淋しさはさらに深まる。


《水内慶太選》

一般の部・特選

石ころは蹴られて高き天を知る       松山市 岩田厚子

 路傍の石だが、石ころ故に蹴られることもあるだろう。高き天は「秋天」のことだ が、その高さを知るのは空を知るもので、「石ころ」にはその高さは生涯解らなかっただろう。しかし、「蹴られ」たばかりにこの石ころは「空」を知ることになる、それも「秋天」という「高き天」なのだ。この句には断定の強さと面白さがある。


一般の部入選

風船は入場できぬ恐竜展         松山市 長澤久仁子

 子供にせがまれて「恐竜展」に出かけた。途中風船売りから「風船」を買う羽目なった。風船を持っての「恐竜展」へ向かったが、風船が恐竜展の障害になるとは思わないが、入場拒否に遇ってしまった。何とか恐竜展は見たのだろうが、風船の行方が気になる。この軽い滑稽さが微笑ましい。

 田に水が走り青空広がれり       松山市 田村七重

 この「田に水が走り」が季語になるかどうかは難しい。しかし、「田水張る」という季語はあり、充分に季感はかんじる。田に水を張る時の春の躍動感や喜びが「走り」と、その水に映し込まれてゆく「青空」に表現されている。水を張る仕事なのだが、あたかも空の青さを張る仕事のような錯覚を覚える。

高校の部特選

 猪狩りのいろは教える父の腕  飛騨神岡高等学校  和仁大志

 「猪狩り」は冬の季語だが、最近は猪や鹿が民家のある里に降りてきて田畑を荒らす被害が出ているようだ。里人が集まって猟銃で駆除するのだが、最近は猟銃を撃てる人も少なくなったようだ。作者のように父親から直伝というのも幸せだ。猟銃の他には罠を掛ける方法もあるが、経験という手本が物を言うものだ。数年たつと作者も立派な猪撃ちになっているだろう。

高校の部入選

 嫁菜飯地球は微動だにしない   伯方高等学校 村上舞香

 「嫁菜の花」は秋の季語だが、「嫁菜飯」は春の季語だ。これは、春の暖かい日差しに、摘んできた「嫁菜」の新芽をお米に混ぜて炊くのである。香りもよく、この時期の旬の食べ物である。春になってあちこちから出てきて嫁菜を摘むのだが、我々の星、地球はどれだけ摘んでも微動だにしないのである。

黙祷をすれば春日の軋みをる  広島高等学校 荒谷奈々穂

 最近の熊本・大分の地震の句では無いかも知れないが、タイムリーな句である。
被災して亡くなられた方々に「黙祷」をするのだが、春の日差しの眩しさが、哀悼の気持ちを深めてゆく。本来は大歓迎の「春日」なのだが、この日ばかりは、この「眩しさ」が悲しい。


《小西昭夫選》

一般の部・特選

北になほ北の空あり鳥帰る       東京都 加茂一行

 日本で越冬した渡り鳥が北の繁殖地に帰っていく。しかし、鳥が帰っていく
北にはなお北があるのだ。言われてみればその通りなのだが、意表を突かれ
た感じがする面白い句である。

  一般の部・入選

  春よ来よ母に記憶のあるうちに    東温市 高須賀明子

 お母さまは認知症なのだろう。自分を産み育ててくれて、いつも頼りにしてきた母が
子供のようになってしまった。その母がまだ自分を分かってくれるうちに春の喜びを
分かち合いたいのだ。

  亀鳴くや一草庵の縁に座す          松山市 加藤朋子 

 一草庵の縁に春の日を浴びている時間は至福の時間だろう仕事に追われるあくせく
した時間ではない。山頭火と対話をしているのかもしれない。そんな時間には亀の鳴き
声も聞こえるかもしれない。

高校の部・特選

  遠足に小鬼紛れてゐたりけり  松山中央高等学校 脇坂空岳

 遠足に紛れ込んだ小鬼は、遠足に参加した生徒の一人だろうか。
ちょっとやんちゃないたずらっ子だ。それとも、自分も参加した
くなった本物の小鬼だろうか。その方が楽しいが、どちらにして
も春の輝きに満ちた秀句である。

高校の部・入選

   死ぬ前に食べたきものを菜飯とす 愛光高等学校 中井望賀 

  死ぬ前に食べたいものを考えたことがなかったので、ぼくなどは思い浮かばないが、
はっきりと断言したところが素晴らしい。しかも、「菜飯」である。
自分の人生をしっかり生きている人の句に違いない。

  真白な雪の登校続くかな       弓削高等学校 時本真弥

 雪」を「真白」と形容するのは、当たり前。「雪」の日の「登校」が続くのもそれほど
珍しくはない。しかし、それが、つなげられると、とても清潔で美しい世界が出現する。
これが青春の輝きである。


《白石司子選》

一般の部・特選

春怒濤ママ自転車の四人乗り           松山市 水口俊幸

  「四人乗り」だから、子どもが三人ということだろうか。少子化の時代からすれば三人
「春怒濤」との取り合わせがすごい!明るく、そして逞しい母親が想像され、怒濤のごと
くやって来て、怒濤のごとく去ってゆくのである。

一般の部・入選

生きるのも難儀難儀とひなあられ      松山市 清家孝子

  死にたくはないが、生きるのも確かに大変。「難儀難儀と」の繰り返しによる大仰な言
い回しがちょっぴり滑稽味を誘うし、「ひなあられ」との取り合わせから、そんなに深刻
ではない作者像が見えてくる。

爆買いの遍路は西の海越えやって来た  雲仙市 前田幸蔵

  買い物の仕方が半端ではない「爆買い」。テレビなどでよく観る光景であるが、
この句の眼目は、その主体が、西の海を越えてやって来た「遍路」であること。
「断捨離」など以ての外。弘法大師の修行の跡を辿る遍路も遊楽的要素が濃くな
った証しだろうか。

高校の部・特選

植木屋にほめられている花水木     愛光高等学校 中矢 温 

  庭木や公園樹、街路樹として植えられる「花水木」であるから、この「花水木」は、植木屋に
手入れされながらほめられているのかもしれない。が、ほめられるのは嬉しいけれど、なんと
なく気恥かしくもある。それも植物に関してはプロである「植木屋」だから尚更。
何となく照れているような人間、いや、「花水木」が想像されて、俳味のある句に仕上がって
いる。

 高校の部・入選

 構えから助走長くて仔猫跳ぶ   愛光高等学校 門屋奈穂子

  季語「猫の子」は、今年度の俳句甲子園地方大会の兼題の一つであるが、写生の眼の確
かな句である。上五からはお尻をフリフリしている構えの様子、また、中七からは跳ぶことを
躊躇っている様子が伝わってきて、可愛い!じっと観察していた作者は跳んだ仔猫を見て、
思わず拍手!これから仔猫はさまざまなことに挑戦してゆくのである。
もちろん、作者も!

友達や桜ちるころ親友に        吉城高等学校 小倉佑太

  桜が咲く入学式の頃には友達でしかなかったが、花が散るころになると、無二の親友の関
係になっていたというくらいの句意だと思うが、「友達は」ではなく、「友達や」で切れを明確に
していることで、作者の感慨深い思いが伝わってくる。また、「桜ちるころ」つまり、「花は葉に」
という美しい時節、また、美しい友情も一句全体からうかがえる。

《本郷和子選》

一般の部・特選

水切石のつつつつと風光る                   松山市 井門敬之

  水面を走るように投げると石はつつつつと進む。このつつつつという言葉をうまく表現している。「風光る」の季語がこの句にぴったりと合って、さわやかな情景が浮かぶ。

一般の部・入選

花の山うしろは奈落かもしれぬ                松山市 安 悦子

   美しい桜の咲く山を作者は眺めているのだろう。しかし、その山の後ろは「奈落」という場所
かもしれないと思うのだ。「奈落」とは地獄とも、物事のどん底、絶望とも言う。
明と暗、喜と悲となる対称的なものを表現して一句を深いものにした。

ふらここを漕いで離島へ転校す             松山市 秋山豊美

   ブランコを漕いでいる子はもうすぐ、友達や先生と別れて離島へ転校するのだろうか。
一人いろんなことを思いながら寂しさをこらえて黙々とブランコを漕ぐ姿がテレビドラマの
一場面のように想像できる。俳句は17文字で広い世界や、物語をも内蔵できる素晴らし
いものである。

高校の部・特選

  少年の竹刀陽炎を裂いてゐる         水沢高等学校  伊藤亜聞

    剣道の練習、竹刀を戸外で素振りしているのか。そこらには陽炎がみえるのだろう。
思い切って竹刀を振ると、まるで陽炎を、裂いているような、スパッとした動きなのだ。
健康的動きのある、切れのある句となった。

  高校の部・入選

   陽炎や家出少女の影の濃き           水沢高等学校  桂田有希

  陽炎の中、少女は家出をして歩いているのだろう。少女にどんな事情があったのかわか
らないが、ゆらゆらと地面から立ち上がる暖められた空気が陽炎となって少女の心の動き
を象徴するようだ。影の濃さは、しっかりと少女の存在感を示している。

嫌いという言葉の重さ沈丁花           広島高等学校 材木朱夏

  「嫌い」という言葉は「好き」という語より確かに深く重いものが秘められている。
青春時代の複雑な心の葛藤は「嫌い」という言葉さえも詩になるのだ。
沢山悩み苦しみ、嫌いになることも貴重な経験となる。
沈丁花の季語により気持ちを香りで癒してくれる。


《熊野伸二選》

一般の部・特選

 逢ひに行く糸遊の糸たぐり寄せ  千葉県市川市 執行 香

  「糸遊」は「いとゆう」と読み「クモが糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に屈折して
ゆらゆらと光って見える」のをいう。また「陽炎」の異称でもある。両者とも春の季語で
「有るか無きかのものに例えられる」ことが多い。
 掲出句は、まさに、有るか無きかの「糸遊」の糸を頼りに、大事な人に逢いに行こうとしている。
果たして逢えるか悲壮感を感じさせる。だが実は「糸遊」という滅多に使わない言葉に作者が
感興を催し、優雅な作句を楽しんだのかもしれない。

一般の部・入選

道祖神煙たがらせて野火走る         岐阜市  若山千恵子

  道祖神は、言う迄もなく「路傍の神」である。集落の境界や道の辻などで石像となって静か
鎮座し、災厄の入り込みを防ぐ役割を果たす。
ところが春先に農山村などで行う野焼きの煙が「道祖神」まで流れてきた。
下五の「野火走る」が火の勢いを感じさせ、石造の神様も、思わず「けむい‼」と顔を背けた
様子が滑稽さを滲ませる。 
 
風音の一日高く春障子              松山市 丹下啓子

  「春に三日の晴れ間なし」と云って、春は天候が変わりやすい。この日も一日風が強かっ
ようだ。家事をこなしながら、屋外の風の音や、春の日差しを一杯に受けた明るい障子
が「かたかた」鳴る音も聞こえただろう。
季節の変化は、落ち着いた暮らしの日常にとって、ひとつのアクセントとなる。

高校の部・特選

春時雨一息に吹くトランペット      飛騨神岡高等学校  沖村大志

  「時雨」は冬の季語だが、ここでは「春時雨」で「春に降るにわか雨」である。
春時雨の中、若者の「気分」がどういうものか、少年時代が過ぎて六〇年も経た評者には、
思い出す手だてもないが、或いは鬱々としたものがあるのかもしれない。
そこへ行くと、あの甲高いトランペットを、思いっきり一息に吹くと、もやもやが雲散霧消して
爽快感が返って来るに違いない。

高校の部・入選

夕暮の枯葉が土になる匂い       松山西中等教育等学校  善家 匠

 夕暮れ時、降り積もった枯れ葉を踏みしめると、その柔らかな感触と同時に、香ばしいよう
な懐かしさに満ちた匂いが湧き上がってくる。それは「枯葉が土になる匂い」だと作者は云う。
自然の営みの見事なリサイクルを作者は悟ったに違いない。

入試子の鼓動机に揺れのあり         水沢高等学校  村上 瑛

  入試は、誰にとっても緊張の場面である。高校受験や大学受験は一発勝負で、試験会場
に入ると、自然に胸の鼓動も高まるというものだ。
胸の鼓動は、心臓が血液を送り出すため規則的に収縮・拡大をする事であり、動悸ともいう。
その高まりが、体全体に乗り移って、机に伝わり、小刻みに揺れているーと感じたのである。

俳句一草庵・児童賞

おべんとうさくらのシャワーあびている  北条小一年 亀井 綴 

  お花見に行ってお弁当を広げると、さくらの花びらがまるでシャワー のように降っってきた。
その様子が上手に俳句にでている。(本郷)